August 18, 2016

This maybe my Final Destination.


飽くまでも個人的な見解、もしくは偏見であることを先に述べておく。
宮本輝の描くエロスは、生々しく、淫猥でいて、現実的だ。
対して村上春樹のそれは、青臭く、童貞の妄想のようにメルヘンに満ちている。
リアルの宮本とファンダジーの村上。
村上春樹を有難がる輩は、ブランドに群がる大衆的な価値観の持ち主なのではないかと懐疑する。
宮本輝の『泥の河』を久しぶりに読み返した。
生々しくもおぞましい人間の営みを純粋無垢な子供の視点で描いた、氏の代表的な短編小説として数えられる。
河と言えば同氏の著作、『ドナウの旅人』を思い出す。
十七歳も年下の男と旅に出た母を追いかけて、源流のシュヴァルツヴァルト〈黒の森〉から黒海まで約3000kmに渡ってドナウ川を旅する四人の物語。
50歳の母を連れ出した33歳の男の真意は。
二人を追う娘と、その元恋人との愛は国境を超えて再び結ばれるのか。
そして差し迫る殺し屋の影。
人生は長い川のようだとは使い古された格言ではあるが、一筋の川がか細い源流から海に流れ入るまでに幾つもの支流から助力を受け、徐々に太く、力強く成長していく様は、確かに人生の在り方と似ている。
友人と呼べる人の少ない私ではあるが、気付かぬ内に、様々な出会いと交流によって恩恵を受けていることを忘れてはならないと肝に銘じておく。
梅里雪山もまた、4000kmにも及ぶメコンに注ぐ源泉の一つだった。


麗江から中国に入って四日目、食堂で朝食に出された白粥とザーサイを食べていると、タクシーが約束の時間通りに迎えに来た。
最終目的地であるメコン川上流を目指す。
メコン川は中国では瀾滄江(ランサンジャン)と呼ばれる。
ランサンとは、14世紀〜18世紀にかけてラオス・ルアンパバンーンで栄えたランサーン王国から由来する。
ランサンの名を冠しているところを見ると、北接する中国では明の時代、メコン川を伝って両国の間で良好な国交が結ばれていたことが窺える。
タイのチョンメックでメコンと出会ってから約20年。
遥か上流で再会するメコン川に胸が高鳴る。

タクシーは宿を出てから坂道を上り続け、雲を見下ろすまで標高を上げた。
一日チャーターしたのだから、折角なので適当な所で車を幾度か停めさせ、雲を見下ろすパノラマ風景を写真に収める。
一頻り雲の上を走ると、道は山裾へ向けて緩やかに下り始めた。
途中で観光名所となっている飛来寺展望台に立ち寄り、三叉路を左折する。
直進すれば道はチベット自治区の拉薩(ラサ)まで続くらしい。
梅里雪山の万年雪を眺望しながら天上から下界へと、幾重にも折れるつづら折りの坂を下り続ける。
車窓から遥か下にまばらな集落や畑が見える。
その家屋や建造物は漢民族の無機質なそれとは趣を異にする独特の形態と色彩を纏い、まるで絵本の世界の様な静かで牧歌的な風景が拡がっている。
まだ水面は見えないものの、恐らくそこがメコンなのだろうと思われる谷を挟んだ向こう岸にも同様の集落が見える。
『失われた地平線』でシャングリラの麓の村として描かれた「青い月の谷」を彷彿させる。
谷底まで下りた所に辺境警備らしき建物が建っていた。
その後ろに土砂を含んだ茶色い川が流れている。
車から降り、パスポートチェックを受けている間に運転手に訊いてみた。
 「これが瀾滄江か?」
 「是。(そうだ)」
遂にここまで来たことに感慨に耽る。
猛々しく音を立てて流れるその様は、ラオスで悠々と流れる様とはまるで異なり、まだ若いメコンなのだと得心する。

橋を渡り、透明に澄んだ川に沿って暫く走った所に梅里雪山への登山口がある。
息を切らしながら登る最中にもその川は流れている。
小一時間かけて登り切ったそこには有無を言わせぬ迫力の氷河が、先端の尖った前人未到の霊山・カワクボから圧し掛かるように眼前に迫っていた。
その傍らには湧水と思われる滝が落ち、氷河から溶けて流れる水と交わり川となり、間もなくメコンへと注ぐ。
この氷河もまた、メコンの源泉の一つに違いない。

大きく感動したいところではあったが、この登山を単なるハイキングと甘く見過ぎていたらしい、スニーカーにジーパン姿でペットボトルの水しか携えなかった私は心身ともに憔悴し、下山中には水すら喉を通らない程に脱水症状を起こしていた。
数歩歩く度に立ち止まっては息を整え、また数歩歩いては立ち止まる。
ふらふらと覚束ない足で歩いていると、一人の男が擦れ違い様に立ち塞がった。
彼は大きく手を拡げて私の行く手を阻んだかと思うと、
 「ワーーッ!」
と叫んだ。
何の事かと唖然とする私に、もう一度
 「ワーーッ!」
と同様に叫ぶ。
呼応を促しているのかと思い、私も力を振り絞って叫び返した。
 「ワーーッ!」
 「ウォーッ!」
 「ウォーッ!」
と、彼と私は五回もそれを繰り返した。
恐らく疲労困憊した私を奮い立たせたかったのだろう、彼は笑顔で私の肩を両手で軽く叩くと、仲間と共に去って行った。
彼もまた私に流れた支流だったのに違いない、這う這うの体でありながらどうにか私は下山を果たすことが出来た。
待っていたタクシーに乗り込んだ私は、再びメコンを見ることも無く、宿に着くまで眠り続けた。


翌朝、チェックアウトした私を季候鳥旅游酒店は家族四人で送り出してくれた。
物腰の柔らかい男は私の為に絵葉書と栞のセットを土産として用意してくれていた。
喜んで受け取った私は、彼の名前を訊ねた。
 「リンアル。」
すかさず彼の父親が私の左手を取り、掌を指でなぞった。
 「林」 「二」
漢字を解する日本人で良かったと思える瞬間だった。
恐らくは林家の二番目の子という意だろうか。
 「謝々、リン・アル」
と私は彼と握手を交わし、家族全員に手を振って別れた。

香格里拉へ向けて走り出したタクシーのリアウィンドーから目が離せなかった。
きっと私は暫くこの土地に執着してしまうに違いない。
この地こそ私の理想郷。
是非また訪れたい―—否、必ず訪れる、静謐の朝を求めて。



scott_street63 at 02:51|PermalinkComments(0)TrackBack(0) | 中国

June 09, 2016

#201 Migratory Bird Inn


天国とはこんな所であればいいと切に思う。
寂寥感漂う静謐に満ち、澄爽たる空気に包まれ、肌寒い微風が地を撫でる。
雪を被る山に囲まれた緑溢れる大地。
空では鳥が囀り、地では牛がのどかな声を上げる。
安穏の内に流れる時間。
季候鳥旅游酒店は、そんな所に建っていた。

徳欽からタクシーで約10分、バスで巡った道を逆行した所に目的の宿は建っていた。
季候鳥旅游酒店――英名で『Migratory Bird Inn』。渡り鳥の宿。
そのネーミングセンスが気に入り、インターネットで予約していた。
予めレビューで見知ってはいたものの、周囲には何も無い。
他の宿も無ければ商店も食堂も無い。
車が無ければ何処にも行けない。
よくぞこんな所に宿を開こうと思ったものだ。
タクシーには明日の梅里雪山行きを予約しておいた。

静かな宿だった。
三階建ての小じんまりとした建物。
玄関には木枠にガラスを張った、建物の割に大きな観音開きの扉。
タクシーが着いたと言うのに誰一人出て来ないどころか、人の気配すら感じない。
照明もない薄暗い玄関に入り、大きな声で「ニーハオ」「請問」「ウェイ?」と呼んでみたものの、何の応答もない。
諦めてフロントのソファーにバックパックを降ろし、周囲を散策にでも出ようと扉に手を掛けたところで誰かが下りてきた。
 「誰?」
不愛想な若い女。
 「インターネットで予約していた者です。」
すると彼女は同じ敷地内の隣の建物に向かって大声で呼んだ。
間もなくして年配の女性が現れ、淡々とチェックインの手続きを済ませてくれた。
渡されたカギは201号室。

部屋に荷物を下ろして散策に出る。
眼下の集落に寺でもあるのか、東南アジアの寺院でよく耳にするガムランに似た音が周囲に響く。
何処に寺があるのだろうかと上から捜してみたが、まるで見当たらない。
宿に着いた時からやたらと牛の声が聞こえると思っていたが、牛は至る所に放牧され、みな銘々の好きな所で草を食んでいるのだった。
牛がこの地を統べているのか、道路に出ると牛が三頭、徒党を組んで道路を塞ぐように横並びに歩き、私は目を合わさぬよう申し訳無さげに肩を狭めて端を歩くしかなかった。
擦れ違い様にガムランの正体が分かった。
ガムランに似た音は、それぞれの牛の首に着けられた鈴の音なのだった。
音の高低が不揃いなため、その鈴の音は様々な音階に綴られた旋律のように聞こえたのだ。
ミャンマーのバガンで聞いた読経を彷彿させる。
地平線まで続く無数の仏塔の景色の中で流れては空へと抜けていく読経。
その旋律が心を遠くへ陶酔させる。

チョルテンの建ち並ぶ展望台から雪を被る山峰を望む。
切り立った崖に張り出した祠に無数のタルチョが張り巡らされている。
盆地と言うよりも山と山の裂け目に拓いたような徳欽の小さな町の全体像を見据える。
眼下の集落へと下りる途中で見上げると、山から山へと谷間を越えて、まるで送電線のようにとても長い一本のタルチョが張られていた。
ここに住む人の熱い信仰心が窺える。
集落の奥には2メートル近い赤いマニ車があり、老婆が二人で回していた。
一周回るごとに鈴がチリンと鳴る。
疑うこともなく、救いと来世を願ってマニ車にすがる愚鈍にして純粋な信仰心。
生ぬるい私の怠惰な信仰に少しく恥を覚える。

ホテルに戻り3階のバーに上がると、先刻の不愛想な女と若い男がいた。
姉弟なのだろうか。
 「ニーハオ。」
と言うと、若い男ははにかむような笑顔で「ニーハオ」と応じてくれた。
私はスマートフォンで会話を始めた。
 「明後日、香格里拉まで車をチャーターしたいんだけど、幾らぐらいするだろう?」
彼は知り合いのタクシーに電話をかけた。
 「500元かかりますよ。」
驚いた。
徳欽から香格里拉まで約160kmで500元。
なのにホテルまで乗ったタクシーは梅里雪山まで400元だと言った。
そのことを彼に話すと、高過ぎる、200〜250元が相場だと言う。
タクシーの運転手の名刺を見せると、彼は運転手に電話を掛け、興奮したように話して電話を切った。
 「これで大丈夫。彼にはキャンセルしておきました。明日はぼくの知っているタクシーを手配しておきます。」
と一件落着した。
しかしながら、手元の残金は1,600元。
明日の観光や車代、この先の宿や食事等を考えると心許ない。
 「日本円を両替したいんだけど、明日、徳欽の銀行に寄れるだろうか。」
彼は少し顔を曇らせた。
 「徳欽に外貨を扱う銀行は無いですよ。香格里拉まで行かないとありません。」
それは困った。
これから帰り道に銀行に寄る余裕などない。
 「幾ら?」
と訊かれ一万円札を見せると、彼は姉と相談し、パソコンで今日のレートを調べて財布から両替してくれた。
540元。
高くもない、妥当なレートだ。
彼の優しさに助けられた。
部屋に戻ろうとしたところで、彼に呼び止められた。
 「明日の日の出は7時18分です。明日、ここのテラスで一緒に日の出を見ませんか。」
このバーから屋上に出られるようだ。
起きられる自信は無かったが、興味をそそられた。

翌朝、6時に目が醒めた。
外はまだ暗い。
顔を洗ってから着替え、三階に上がってテラスに出た。
あの物腰の柔らかい男はまだ来ていない。
昨夜の内に雨が降っていたらしい、テラスの床が水に濡れている。
冷気を含む瑞々しい空気は甘いのだと知る。
辺りは濃い靄に包まれ、近くの山も霧で頂が隠されていた。
静かだ。
ようやく空が白ばみ始めニワトリが声を上げると、応じるように牛が鳴き、またガムランの音楽が始まる。
小鳥も空で囀り始めた。
四方を囲む山の頂から陽の光が大地を射す。
静かに、緩やかに、そして厳かに迎える朝。
この時間がいつまでも続けばいいと願わずにはいられなかった。


追記

梅里雪山まで行くと、結局タクシーからは400元を請求された。
途中の飛来寺までなら250元とのこと。
キャンセルした運転手に申し訳ないことをしてしまった。



scott_street63 at 17:20|PermalinkComments(0)TrackBack(0) | 中国

May 11, 2016

On the way to Lost Horizon.


早朝のバスターミナルは薄暗く、肌寒い。
各方面への出発時刻を報せる掲示板の文字だけが煌々と橙色の光を眩く放ち、下から上へとスクロールしては消えていく。
コンクリートを剥き出した簡素な待合室は、様々な土地に向かう乗客で溢れていた。
買出しに来ていたのか麻袋やダンボール箱を幾つも足元に置く男、仕事に行くのか作業着の男、床に腰を下ろして夢中で話す婦人ら。
停留場から出発を告げる男が館内に向かって頻りに大声を張り上げる。
その中でカラフルな服装に身を包む若者らが、その異色ゆえに浮いている。
様々な地域から集まったバックパッカーらだが、日本人はおろか欧米人すら見掛けない。
皆、中国の各地からやって来たように窺える。
この中では恐らく私が最年長だろう。
四十を過ぎて単身旅行に出るなど、真面じゃないのかも知れない。
 「徳欽(ドゥーチン)!」
停留場からの声に立ち上がる。
異色の集団が皆一斉に停留場へと向かう。
バスの乗客はバックパッカーと数人の中年男性、そして三人のチベット仏僧だった。

バスターミナルを出て街中を走る。
私の隣の若い女は窓外に目を向けることもなく、バスに乗り込んでから終始俯いたままスマートフォンを打っている。
携帯電話事情は日本であれ中国であれ変わらないらしい。
バスは街を出るとすぐに坂道を上り始めた。
標高約2,500メートルのシャングリラから徳欽へ向かう途中には、標高4,300メートルの峠越えが待っている。
一時間ほど経過した頃、左側の窓から雄大な大平原が道路脇の障壁に阻まれつつも見え隠れし始めた。
カーブを曲がりながら急勾配を上った時、広大な湖に続く平原が見渡せた。
ナパ海だ―――と思ったのも束の間、ナパ海はそれきり見ることはなかった。
道路脇に展望台があったようだが、定時運行している公共機関が立ち止まる筈もない。
若い旅行者らは皆、名残を惜しみつつ首を後ろへ伸ばした。

バスは金沙江に沿って走る。
メコン(瀾滄江)、怒江の大河と並んで交わることなく直近を流れる三江併流の一河川。
その畔の食堂で小休止となった。
赤茶けた肌を露わにした山が眼前に迫る。
コカコーラの赤いベンチに腰を下ろして煙を燻らせている運転手に話しかけた。
 「私はこのホテルに行きたいです。貴方はこのホテルを知っていますか。」
予め印刷していた地図とバウチャーを見せてみた。
 「このホテルは徳欽までの道の途中にあります。私をここで降ろしてもらえませんか。」
運転手と並んで三人の男が紙に見入ったが、三人とも
 「不知道(知らない)。」
と口を揃えた。
再び出発となり、バスに乗り込む。
 「What did you ask him ?」
通路を挟んで隣りの女子が英語で尋ねてきたので驚いた。
 「英語話せるの?」
 「私たちホンコン出身だから。」
そこで再び地図とバウチャーを見せてみると、周囲の旅行者らも集まってきた。
私を置いて中国語で議論が始まった。
 「看板がある筈だから、そこで降ろしてって言えばいいのよ。」
と彼女が皆の意見を通訳してくれた上、運転手に掛け合ってくれたが、
 「ダメだ、ダメだ。」
と一蹴された。
融通が利くものと思っていたが、時刻表を遵守する定期運行なのだから仕方ない。
徳欽からタクシーでも拾うしかない。
 「走巴。(行くぞ)」
と運転手が一声上げ、バスは再び走り出した。

バスは更に坂を上り続ける。
右手に展望台の看板が掛かっていた。
金沙江が山に沿って大きくカーブを描く「金沙江大湾」。
シャングリラ県の大きな観光スポットとしてどのガイドブックにも必ず掲載されている。
言うまでもなくバスは素通りして行く。
旅行者は少しでも見えないものかと大きく首を後ろへ伸ばしたが、展望台に妨げられて一目たりとも見えることはなかった。

山深い道を走り続ける。
こんな所でも完全にアスファルトで舗装され、定期的に整備されているのか凸凹もない。
これがラオスならば信じられない。
しばらく走り、カーブを左に曲がったところで歓声が上がった。
植林された緑の山が切れ、万年雪を被った岩山がおもむろに現れた。
白馬雪山(標高5429メートル)。
幾つかの峰が連なっているが、総称して白馬雪山と呼ぶらしい。
その美しさに息を飲む。
ホンコン女子が何事かを運転手に言ったが、先と同じ言葉で「ダメだ、ダメだ」と断られていた。
白馬雪山は間もなくして山に隠れたが、また暫くして再び現れた。
今度は先刻よりずっと視野が開け、更にダイナミックな景色が眼前に拡がる。
ホンコン女が再度何かを運転手に訴えかけると、今度は呼応するように車内の若者らも騒ぎ始めた。
仕方なく運転手は勾配の途中でバスを停めた。
 「休憩!写真を撮りたいヤツはさっさと撮れ!」
とでも言ったのだろう、乗客はみな我先にと立ち上がって車外に躍り出た。
大口径のレンズで何枚も撮る者、山を背景に友人と交代で撮る者、自撮り棒で一人で撮る者。
見るとチベット仏僧も満面の笑顔とピースサインで撮り合っている。
縁石に腰かけ煙草を吸う運転手が、抜けるような青空に向かって白い煙を吹きかける。
峠を上る道すがら。
坂道はまだ続く。


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March 23, 2016

Shangri-La.


翌朝、香格里拉行きの乗車券は難無く買えた。
9月21日(月)晴れ。
バスは青空の下、完全舗装の道路を軽快に走った。

信仰とは死への恐怖を緩和する為に在ると考える者は余りに浅薄で思慮に欠ける。
信仰は生きる上での行動原理あるいは規範であり、いずれ迎える死への道筋として在り得る。
死を間近に迎えた者だけでなく、今を生きる者にこそ信仰は在る。
然しながら、只信じることの如何に困難なことか。
遠藤周作著『沈黙』。
迫害されるキリシタンの祈ることしか出来ぬ無力。
神からの救いはおろか天上からは何の返答も無い。
圧倒的な人間の力に挫けた宣教師はキリストの絵をその足で踏むことになる。
信仰の揺らぐ時もある。
約束の地に向けてアブラム(のちのアブラハム)と共に旅に出たロトは、眼前に拡がる肥沃な大地に目をくらませ、その地に居を構えた。
その街の名は、罪深き者が蔓延るソドム――後に神の業火により殲滅される。

ソドムの比ではないが、予約していたシャングリラ・ブルーバードホテルは、2ツ星を謳いながら一晩とて泊まれない程に劣悪な宿だった。

香格里拉――シャングリラとは言わずもがな、世界中で一世を風靡したジェイムズ・ヒルトンの小説『失われた地平線』に登場する寺院の名称であり、転じて理想郷を意味する言葉となったのだが、作中でチベットの奥地と記されていたことからシャングリラ県と改名された、チベット族が多く暮らす土地を差す。
日本のメディアでも神秘的な地として度々取り上げられているが、実際に来てみると何のことは無い、よくある地方都市に過ぎない。
ビルや商店が建ち並び、自動車やバス、バイクなどがごく普通に走っている。
馬車や牛車など前時代的な物は見る影もない。
インドのバラナシと同じく、メディアは現実ではなく、無知な人民が有難く買求める「らしい」景色だけを切り取っているのだと、その地に来て初めて知る。
翌朝の出発に備えバスターミナル傍のホテルをインターネットで予約していたのだが、このホテルもまた「らしい」写真だけを切り取りアップロードしていたのだろう、現実では床は館内から室内まで砂埃にまみれ、久しく来客も無いのだろうバスルームは乾燥し切り、ベッドの上には埃が積もっている始末。
既に支払った宿泊代も惜しまず、汚な過ぎると言い捨てて即座にチェックアウトした。
やはり観光客は「らしく」観光地に投宿するべきなのだろうと考え、タクシーを捕まえ約5キロ離れた旧市街へ向かった。

古城と呼ばれる旧市街では、其処此処で木造建築の解体工事が行われていた。
狭い路地を重機が占拠し解体している傍らで、軽量鉄骨の建築が始まっている。
その足元では道路にレンガを嵌めこむ工程が進められている。
観光資源に力を注ぐ雲南省。
古臭い建築物よりも、より観光客が喜ぶ「らしい」街を造ろうとしているのか。
麗江でも同様、旧市街をアミューズメント施設として取り囲み、国内外の客を呼ぶ。
理想郷の名が鼻で笑う。

然しながら日本人にとってはある意味そこは理想郷かもしれない。
街の中には松茸料理や松茸鍋の看板が目立ち、商店では90リットル程のポリ袋に干し松茸を山積みにしている。
まだ手つかずの古民家が並ぶ住宅街の道端では、茣蓙の上にスライスされた松茸が天日で無造作に干されている。
松茸を大仰に有難がるのは日本人だけだとも聞くが、その通りなのかもしれない。
MATSUTAKE

 「喂、你×◇▲賓館〇■嗎?」
松茸鍋の店の前で初老の男に突然話し掛けられた。
何を言われたのか判らず戸惑っていると、中国語が解らない外国人であると察して、
 「Guest House ?」
と簡単な英語に言い換えた。
バックパックを背負って歩いているのだから香格里拉に到着したばかりの旅行者と思ったのだろう、彼は松茸鍋屋の脇にある戸口から階段の上へと手を小招いた。
Tin Yu戸口には『听雨軒 TIN YU XUAN HOSTEL』と看板が立っている。
听雨――雨音を聴くとは、何とも詩情に満ちた名前ではないか。
木造2.5階建て、一階は料理屋、二階はフロントとシングルルーム二部屋とツインルーム二部屋、階段を上って屋根裏はドミトリーとなっている。
板張りの廊下、階段、大きな切株を磨いたテーブルを置いたロビーなど、木の温もりの伝わる造りに甚く好感を持ち、即決した。

荷物を下ろし、散策に出る。
PASSAGE今にpassage 001も崩れそうな土壁に囲まれた木造の住宅街を歩いていると、タルチョと呼ばれる色とりどりの旗を無数に吊るしたロープの下を何度もくぐった。
それぞれの旗には仏陀の絵と経文が綴られている。
いかにもチベット文化圏に来たのだと実感する。
五本の道が交わる広場に建てられた仏塔は、天辺から幾条ものタルチョが張り巡らされ、胴にはマニ車が嵌められている。
マニ車を回すだけで経文を一度読んだことに数えられるとは、なんとインスタントな仏教かと思えたが、文字の読めない貧しい民衆にも徳を高める機会を与える工夫だったのかもしれない。
tarcho3 001

この土地の人々は何を思ってタルチョを掛けるのか。
艱難の最中にある辛い思いをタルチョに託し、幾条も掛けることで癒しを求めるのか。
日系ペルー人の男に妻子を殺された日本の事件を思い出す。
一時に全てを失った彼の絶望感は想像に難い。
彼の心を癒すには一体何百条のタルチョが必要なのか。
日系ペルー人の罪は決して刑期で赦されるものではない。
キリストと並んで十字架に掛けられた重罪人は、イエスを神と信じたことによりその罪を赦され、死後に天の御国に入ることを約束された。
十字架刑とは極刑の中の極刑である。
余程の重罪でないかぎり十字架刑に処されることはない。
つまりゴルゴタの丘で十字架に架けられたその罪人は、余程の罪を犯したのだ。
観衆の中にはその重罪人に家族を殺された人間もいたかもしれない。
にも拘らず死後に天国に招かれるとは、遺族にとっては憤死してもおかしくない程に屈辱であり、死んでも死に切れないに違いない。
赦されたからと言って罪が無くなる訳ではないが、これでは余りに余りではないか。
人の善行が必ずしも神の義とするところでもない。
神と人とは価値観が異なると云うことだろうが、納得し兼ねる事もある。
それでも疑わず、只ひたすら信じ続けることにこそ信仰の意義はあるのかもしれない。
信仰を持つ人間として、妄信的にマニ車を回す愚直さこそ見倣うべき姿勢に違いない。


眼前に10メートルはあろうかという黄金の塔が建っている。
xianglira 001奇麗に整備された広場に建つ亀山寺という古い寺の階段を上ってその塔に行き着くと、それは塔ではなく巨大なマニ車なのだった。
初対面の男らが目と目を合わせると、暗黙の了解で巨大マニ車の胴を囲むハンドルを手に持ち、数人がかりで走って回し始めた。
マニ車に施された阿弥陀如来のレリーフが何度も目の前を過ぎて行く。
青い空の下で回転する黄金の巨大マニ車を見上げながら、己の脆弱な信仰心が逆に心地良かった。

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December 31, 2015

Translator.


世界の狭さに辟易する。
趣味の域を超えもはや責任感だけで努めていた市民楽団を退団した今、私の世界の大部分は徒歩約5分の通勤圏内に限られている。
一日の大半は陽の当たらない狭い事務所で終業まで過ごす。
大掃除で出てきた愛らしい幼児だった自分の写真を眺めていると、まさかその35年後にビルよりも高い高速道路の行き交う都会に居を構え、年度末の決算に向けて節税に頭を悩ませながら大晦日を迎える日が来ようとは夢にも思えない。
2〜3ヶ月に一度、奈良から出てくる後輩から買い物ついでに茶や晩飯に誘って貰えるのがたまの息抜きか。
とは言え、つい3ヶ月前には妻からの許しを得て1週間近く単身旅行に出ていたのだから、贅沢な我儘なのに違いない。
夫の実家の家業に勤める妻にも息苦しい生活を強いている。
正月くらい実家から離れて河岸を変えようと、先週になってまだ空いている宿を必死に探し出した。
この年末年始は妻と二人で旅に出る。
二泊三日の伊勢参り、豪華海鮮料理と松阪牛付き。
子を持たぬ代わりに将来の希望を捨てたディンクスなのだからと、子を持つ世の同世代に許しを請いたい。


北京から空路約4時間、雲南省麗江は既に夜を迎えて久しかった。
山間の高地ゆえ若干空気が薄く感じるのは単なる気のせいか、麗江は標高2,400M程度に過ぎない。
空港を出ると、途端に客引きが押し寄せた。
多くは非正規の白タクだろう、正規のタクシーは運転席に座ったまま大人しく整列して客を待っている。
 「グジャン?」
年配の女性が他の客引きを掻き分けて話し掛けて来た。
恐らく古街の事だろうと思い、
 「是的。(そうだ。)」
と短く答えると、彼女は群衆の外で待つ若い男に私を引き渡した。
男は何事かを話して私の背を押し、一般駐車場に停めてあるRV車に私のバックパックを乗せると、ハッチを閉め、さらに私の背を押して駐車場の外まで連れ出した。
 「ここで待っていてくれ。すぐに迎えに来る。」
とでも言ったのだろうと解釈し、一抹の不安を覚えながら暗い道路脇で待った。
恐らく白タクの客引き行為をカムフラージュするための工作なのだろう、程なくして彼は車に乗って私の前に戻ってきた。
 「等一下。到古街多少銭?(ちょっと待て。古街まで幾らなんだ)」
 「・・・ハングォ?(韓国?)」
 「リーベン(日本)」
中国人でないことはすぐにバレた。
しかしなぜ海外では東洋人を見るとまず韓国人と思うのだろうか。
 「100元。」
 「太貴!(高すぎる)」
日本人と聞いて吹っかけて来たのかと思ったが、果たして中国人にとって韓国人と日本人の間に差があるのか、甚だ疑問でもある。
 「不貴。△◆××⚪︎■......」
高くないと言ったのは解ったが、その後はさっぱり理解出来ない。
その様子を見て彼はスマートフォンを取り出し、受話器に向かって同じ言葉を繰り返した後、私に画面を見せた。
 『100元は正規の料金です。正規のタクシーなら空港の駐車料金まで請求されます。』
という内容が英語で表示されていた。
彼は翻訳アプリを使用したのだった。
なんと便利な時代になったものだろう。
そして私は英語でスマホに話し、彼に渡すと今度は中国語に翻訳されて表示される。
 『貴方の言ったことを理解した。100元で了承する。』
実際にボッタクられているのかどうかは分からないが、日本円で2,000円弱なら妥協できる範疇だった。

夜の街道を駆る。
抜け道なのか彼は途中で幹線道路から逸れ、曲がりくねる未舗装の山道を駆け下りた。
走りながらスマホを介した会話は続いた。
 「旅行?麗江は初めて?明日一日ガイドしてあげるよ。」
 「初めてだけど、時間が無いんだ。明日の朝にはバスに乗って香格里拉(シャングリラ)に行くんだ。」
 「なぜ?麗江には見るべきものが一杯あるし、自分なら車でどこでも案内できる。玉龍雪山も虎跳峡も見たことがないだろう?」
彼の熱烈な商魂に押されそうになる。
彼も家族を養うために必死なのだろうが、こちらも限られた時間を有効に使わなければならない。
 「美しい景色には興味がないんだ。俺は明後日には徳欽に行きたいんだ。」
 「分かった。じゃ香格里拉まで明日案内するよ。」
 「ありがとう。でも自分で行きたいんだ。」
そこまで言うと、男は車を道路脇に停めた。
もう市内に入っているしホテルも近いはずだ。
もしかして怒らせたのか、あるいは今から恐喝されるのかと怖れていると、彼はまたスマホの画面を見せた。
 「君の中国語ではこの先の旅行を続けることは無理だ。バスのチケットも買えないだろう。」
確かにそうかもしれない。
今まで各地で切り抜けて来れたのは、最悪な場合でも英語が通じたからだろう。
とは言えこちとらその程度の中国語は勉強して来ている。
どうしても通じないなら筆談すればいい。
 「問題ない。早くホテルへ連れて行ってくれ。」
諦めたのか、彼は素直に車を発進させた。

予め予約しておいたホテルに着いたらもう10時を回っていた。
安宿だけに、フロントではカジュアルな私服の女子が3人固まって談笑していた。
 「晩上好(こんばんは)。インターネットで予約していたんですが。」
と言ってもやはり通じない。
そこで私も翻訳アプリで中国語を表示してパスポートを見せた。
彼女は引き出しを開けて予約リストを探した後、彼女もまたスマホの画面を見せた。
 「没有(ありません)。貴方の予約はキャンセルされました。」

それはともかく、意思疎通が図れただけでも僥倖。
これがあればもはや行けない所は無い。
また一つ世界が拡がった。


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October 19, 2015

Chicken Rice or Seafood Rice.


 「Chicken Rice or Seafood Rice ?」
隣りの夫婦は答えられず狼狽えた。
絶え間なく響く轟音、エコノミークラスの閉塞感、窮屈な座席。
前に座る乗客が無遠慮に背を倒す。
 「Checkin Rice or Seafood Rice ?」
豚に餌でも与えるように、客室乗務員はにこりとも笑みを見せない。
関西空港発、北京行きCA-162便。
日本発着の便には珍しく、日本人どころか片言の日本語を話す乗務員もいない。
勿論、機内アナウンスも中国語か英語しか流されない。
 「チキンライスかシーフードライスだそうですよ。」
乗客の過半数が中国人のため、おおかた私もその一人だと思っていたのであろう彼らは、私の助け船に顔を綻ばせた。
 「シーフード、プリーズ。」
乗務員は次に私に顔を向けた。
 「チーファン(鶏飯)。」
平静を装って私が放った片言の中国語は、どうやら通じたらしい。
メコン河上流を求めてチベット族が8割を占める町、雲南省・徳欽を目指す。


中国への個人旅行は、近距離な割に困難を極める。
上海や大連など沿岸地域ならまだしも、奥地へ行くと片言の英語すら通じない。
"Money" や "Water" 等の簡単な単語すら彼らは知らない。
たとえ中国語を話したつもりでも、発音次第ではいとも容易く「メイヨー(没有)」で済ませてしまう。
その上、相手は中国語が通じないと判っている筈なのに、平気で中国語で捲し立てる。
彼らの言語を解さないことが理解できないのか、或いは単に溜飲を下げるために喉まで出掛かった事柄を放っているだけなのか。
巻くし立てた後に相手の反応を待つ所を見ると、恐らくは前者なのだろう。
中国語を解さない人間などいない―――何処ぞの大国と酷似している。
東南アジアで英語で捲し立てる白人旅行者をしばしば見かける。
両国とも我こそは世界の中心であると勝手に自負する傾向が強く窺える。
厚顔無恥とは正にこの事。

とは言え、世界人口約70億人に対し、日本語は日本人約1億3千万人にしか使用されない程マイナーな言語であるにもかかわらず、シンガポール・チャンギ空港内の案内板には、タミル語・英語・中国語と並んで日本語が表示され、グアム空港
では「ようこそグアムへ」と縦書きの大きな垂れ幕が天井からぶら下がる。
韓国・台湾では日本語を話す店員も多い。
もはや経済的に大東亜共栄圏を構築しているかのような錯覚を覚える。
日本人にとっては便利なことだが、外国語を学ぶ必然性や危機感が薄れ、国際感覚を養う機会を益々逸する。
結果として、日本人は島国根性を更に育むことになる。
旅行の行先は日本語の通じる国に限定されるなど。
成る程、日本人の面の皮も十分厚い。

日本から雲南省・麗江までのツアーは多い。
麗江からバスを乗り継ぎ2日を掛けて徳欽まで向かう旅。
面の厚さはどこまで通じることか。


機内食に次いで飲み物が運ばれてきた。
私は紅茶を欲して言った。
 「Black Tea」
茶葉の色が黒いことから紅茶は英語でBlack Teaと言う。
しかしそれは欧米系航空会社でしか通じないようだ。
 「阿?」
 「ホンチャ(紅茶)」
 「阿?」
 「Red Tea」
 「・・・。」
どうしても通じない。
 「Hot Tea!」
通じたのか通じなかったのか、無言の内に差し出されたのは温かい中国茶だった。
紅茶の用意は最初から無かったのかどうか分からず仕舞いだったが、その国の料理にはその国の茶が合うということか。
薫り立つジャスミンの湯気に想いを馳せる。

今の会話から、バスの切符すら買えるのかどうか。
久々の一人旅への好奇心に、一抹どころではない不安を抱きながら翼は進む。
まずは一路北京へ。


scott_street63 at 02:24|PermalinkComments(0)TrackBack(0) | 中国

March 08, 2015

Travel to my own sanctuary.


母の作る雑煮は、鰹出汁に焼いた餅を入れる澄し汁である。
具は大根、蒟蒻、金時人参、小芋、鶏肉、水菜、最後に花鰹を大量に振りかけて食す。
元旦の朝は居間の炬燵に入り、和装の父を中心に家族揃って新年の挨拶を交わした後にお年玉が父から手渡され、新年の抱負を述べさせられてから漸く雑煮にありつける。
石油ストーブの天板に雑煮の鍋を置き、その脇で餅を焼く。
母は子供たちに餅の数を尋ね、塗りの椀に焼けた餅を入れてから具沢山の雑煮をよそって皆の前に配り、各自で最後の仕上げとして花鰹節を好きなだけ振りかける。
どういう訳か二日目には白味噌を入れられるため、澄し汁の雑煮は元日の1日しか食べられない。
私は母の作った澄し汁の雑煮が好きだった。
いつか食べたいと思いつつ、ここ十余年、正月を日本で過ごしていない。
旅に出たい欲求、理想郷への探求欲が母の雑煮よりも勝っていたということか。
今年こそはと思って口に出したのだが、その十余年の間に母は、正月だからと言って雑煮なぞ作らない習慣を身に付けてしまっていたのだった。
青い鳥の逸話ではないが、理想郷とは案外そんなものかもしれない。
母の雑煮は私の理想郷の一つに違いない。


どよりと重く圧しかかる雪雲に覆われた景色が好きだ。
幼少の時分、正月になると親戚一同で祖父母宅に集まっていたのだが、私は同世代の従兄弟と遊ぶことなく、一人で田畑に囲まれた農道をよく散歩したものだった。
とりわけ元日の朝は殆ど人も車も通ることがなく、雪雲が雑音を吸収するのか世界は静寂に包まれ、広い田圃の中、空一面に広がる重々しい雪雲をぽつりと一人で見上げる時が、自分にとって何よりも幸福なひと時だった。
不惑を迎えた今でさえ、その風景を思い出す毎に胸の奥で憧憬が蘇り、甘い感傷に浸らせてくれる。
冬の朝の寂寥感。
2015年1月1日、目を醒ますと窓外は雪景色だった。

12月30日〜1月2日まで、妻と二人で新年を迎えようと奈良県吉野の老舗旅館に三連泊した。
私一人で中国とミャンマーの国境の町まで旅する計画もあったのだが、その旅に要する総費用を利用すれば、妻と二人で近郊の露天風呂付き客室で舌鼓を打つ美食と温泉を堪能しながら新年を迎えることも出来ると考え直し、趣旨を変えた次第だった。
アジアの辺境の町の不味い食事と汚い宿の不快なベッドで妻の安否を気遣いながら一人で新年を迎えることを思うと、実に英断であったと自讃する。
年齢の所為か、決して過酷な旅に臆した訳ではない、とは断言できないことも事実かもしれない。

お屠蘇と共に重箱で出されたお節と雑煮を戴いた後に朝寝を貪り、正午過ぎ、寝正月を決行した妻を宿に残して単身雪の中を散策に出た。
雪を踏みつつ古民家の並ぶ道を歩む。
標高が高く余程寒いせいか車の轍で雪が醜く溶けることもなく、未だ誰の足跡も無い道端の雪は絹のように目が細かく柔らかい。
踏んだ所で鳴き砂のような音も鳴らない。
足は静かに運ばれた。

後醍醐天皇が南朝を開いた吉水院を訪ねた後、同天皇が祀られているという如意輪寺へ向かう。
アスファルト舗装の道から外れ、谷に向かって山道を下りて行く。
雪に隠れ恐らくはこれが道なのだろうと思われる地面を慎重に踏みながら、草や落葉に覆われた道を行く。
私の他にこんな山道を歩く者はいない。
四月にもなると桜が咲き乱れ、多くの花見客で賑わうのであろう光景を想像してみるも、冬の吉野は寂寥感に満ち、宿や食堂でさえ閉館している所が多い。
見上げると、葉も無い寒々しい木々の上に重苦しい雪雲が圧し掛かるように拡がる。
雑音が全て雪雲に吸い込まれているのかと思えるほどに静寂に満ちた世界。
周囲が静かな分、己の中のエコーに耳が傾く。
甘美なるひと時。
真に己と向き合える場所。
成程、結局のところ、理想郷は己の中にこそ在るのだと思い知る。
己の中へと深く沈む聖地巡礼。
一人旅と書くことは似ている。
書くに際して自己の深い部分を探求する。
これを書く今でさえ私は聖地を旅している。

理想郷はこんな近くに在りながら、果てしなく遠い。
雑音の無い聖地へと向かうためにこそ、今まで単身旅に出ていたのだ。

妻には申し訳ないが赦してもらいたい、またいつか独りで旅に出るこの勝手を。


scott_street63 at 03:35|PermalinkComments(0)TrackBack(0) | 日常

April 25, 2013

Epilogue.


列車が出発して間もなく世界は夜に包まれた。
2012年12月30日、17時30分チェンナイ・エグモア駅発カニャクマリ・エクスプレス。
かつてマドラスと呼ばれた南インド最大の都市チェンナイから夜を通してインド亜大陸最南端の聖地・カニャクマリを目指す。

 「デリーで子供に取り囲まれて大変だったんですよ。」
奇遇にも同じ車輌に乗り合わせた日本人青年が言った。
1等寝台車は通常4人分のベッドで構成されるコンパートメントなのだが、私と妻の部屋は2人用だった。
コンパートメントは一車輌に4.5室。
まさか気を遣われた訳ではあるまいが、私らは良い具合に半端な0.5室分を宛てがわれたのだった。
 「空港からオートリクシャーで市内に向かったんですけど、信号で止まった時に群れになって寄ってたかられて…」
見知らぬインド人3人と相部屋になった彼は、珍奇な場所で思いがけず居合わせた我々の部屋に話しに来ていた。
インドでは鉄道の座席は発券時に指定出来ず、発車前に各車両の入口に乗客名と座席番号が貼り出される。
そこで私と妻は我々以外の日本人名を発見し、あとで遊びにおいでと声を掛けたのだった。
 「学生さんの貧乏旅行ならともかく、外国人は多少高くてもプリペイドタクシーに乗らないと。インドは初めて?」
3人で下段のベッドに腰掛け、駅の売店で買った菓子をつまみながら話す。
 「はい。普段はヨーロッパばかりなんですけど、一度インドには行きたいとずっと思ってて…。で、初めてのインドであんな目に遭って、1日目で萎えましたね。」
ははは、と笑いながら話が弾む。
 「インドにはもう何回も来てるんですか?」
彼の問いに、初めてのインドがもう何年前だったのかと思い返してみる。
もう遠い昔のことなのか、何時のことだったのかまるで思い出せない。
鮮明に脳裏に浮かぶ雑然とした街並みのコルカタ、バラナシの牛、マルコ…。
カーテンの隙間から闇夜が覗く。
列車は軽快に音を立てながら、南へと一途に走り続ける。


初めてのインド旅行を含め、インドには4回訪れた。
コルカタとバラナシを訪れた後、前妻と1度、仕事で1度、そして今回のカニャクマリで4度目になる。
帰国してから調べたところ、初めてインドを訪れたのは2005年、前妻との結婚を控えた時分だった。
そして今回のインド旅行も二度目の結婚を二週間後に控えている。
まるで何かの儀式として訪印している訳ではないのだが。
私はインドの魅力には取り憑かれなかった。
オートリクシャーに揺られてガンガーに架かる橋を渡った夜を思い出す。
 「ジャパーニー、これがガンガーだ。」
と自慢げに話す運転手とは裏腹に、ガンガーの黒い川面に並んで映る燈火を眺めながら、私はメコンを懐かしんだ。
それだけに、私は1年に1度は必ずラオスを訪れている。
インドを訪れた者は好むか嫌悪するかの二極に分かれると聞く。
前妻は二度と来ないと言う程にインドを憎んだが、私は、どちらかと言えば好きかもしれない程度で終わった。
にも拘わらず、ひとたびインドと聞くだけで危険で甘美な憧憬に誘われるのは何故だろうか。
それがインドの魅力なのかもしれない。


夜8時を過ぎた頃、特急カニャクマリは大きな駅に5分ほど停車した。
出発して暫く、ドアがノックされた。
チェンナイを出発する時に注文した弁当だった。
アルミホイルの蓋を剥ぐと、インド風炊込みご飯=ビリヤニが敷き詰められていた。
米粒の隙間から中に埋め込まれた骨付きの鶏肉と茹で卵が覗いている。
スプーンが無いからインド風に手で食べ始めると、プラスチックの小さなスプーンが米粒の中に埋められていた。
 「ひと口どうですか?」
と青年に勧めたが、
 「いえ、僕はさっき自分の部屋で食べて来たので…。」
と言って彼は菓子をつまんだ。


ギラつく太陽、怒声、騒音、砂煙、目に焼き付く総天然色の神々…
歌手や俳優のブロマイドと並べて売られるシヴァやヴィシュヌ、ガネーシャ等の神々、あるいはサイババの写真。
通常相反する聖と俗が入り交じるインドが最も天国に近い国と呼ばれる由縁であり、そこに魅力を見出す旅行者も多い。
しかしながら私自身がクリスチャンであり、何を今さらと思える程に神を身近な存在と信じる人間であるから、なんら刺激を覚えない悲しい結末となったのだろうか。
否、それだけではない。
初めてのインドを振り返る度に思い出すあのスペイン人・マルコ。
彼の強烈な個性はインドのそれを遥かに凌駕し、今でさえ私の記憶から決して薄れることがない。
バンコクからコルカタへ向かう機内で、「もう一杯いかがですか?」とキャビン・アテンダントが勧めたにも拘わらず、彼女らは一向にビールを持って来なかった。
 「信じられるか?ヤツら忘れてやがる。」
と言ったのち、彼は私の制止も聞かず途中寄港のガヤーへ下降している最中に隣りの乗客を跨ってギャレーまで行き、満面の笑みを浮かべて勝ち取った2本のビールを掲げて戻って来た。
もちろん、酒に弱いから要らないと言った私の言葉も彼には届かず、2人で乾杯する羽目にもなった。
自己中心的な人間は大抵嫌われるものだが、その範疇を大いに超越するスーパーポジティブシンキングを持ち合わせた彼には、嫌悪感を通り越してただただ驚かされるばかりだった。


深夜特急は闇夜を裂いて今日から明日へと突き走る。
自室に戻ろうと我々のコンパートメントを辞した青年が、再びドアをノックした。
同室の乗客らがカギを掛けてしまい、閉め出されたと言う。
彼のコンパートメントに行ってみると、室内の照明は消え、ひっそりと静まり返り、聞き耳を立てると一人の鼾が響いている。
さすがに扉を強く叩いて起こしてしまうのは憚られる。
朝になれば戻ればいいからと、我々は彼を再び迎え入れた。
 「お前は物分かりが良過ぎる。」
過去に父からそうたしなめられたことを思い出す。
こんな時マルコなら、憚ることなく中の客を叩き起こしていたに違いない。
 「You must change.」
彼の言葉が鮮明に浮かぶ。
あれから私は自分自身を変えることが出来ただろうか。


コルカタから出国したあの後、私はバンコク・ドン・ムアン空港でチェックインカウンターに並んでいた。
世界的なハブ空港だけに、洋の東西を問わぬ様々な人種の乗客が皆、大きなスーツケースや複数の荷物をトロリーに載せて所狭しと密集していた。
どのカウンターにも長蛇の列が出来ていたが、私の並んだカウンターは特に長かった。
見れば中年の欧米人客がカウンターに詰め寄り、埒のあかぬ論議を繰り広げている。
相手をしているのは若い女性スタッフで、独りで奮闘している。
5分待てど10分待てどもまるで解決せず、苛立ちを募らせた後続の客らは、一人、また一人と他の列に回り、ついに私が最後の一人となった。
見れば彼女から少し離れた後方で年配のスタッフが数人突っ立っている。
中年欧米人の問題はまだまだ解決しそうに見えない。
こんな時、マルコならどうするだろう。
腹立ちの余り、恥も醜聞もかなぐり捨てて私は大声で怒鳴ってみた。
 「How long should I wait here !?
  Why noone don't help her !?」
私の声がホールに響き、世界中の人間が私を見た。
呆然と突っ立つスタッフも私を見た。
しかし結果は何も変わらなかった。
それで構わない。
世界は結果だけで動いている訳ではない。
結果に至るまでのプロセスこそ時に重要なこともある。
私は殻をひとつ突き破ったことに満足を覚え、恥じ入ることも無く他の列に加わった。
溜飲は幾分収まった。

私自身の成長と変化のプロセスという旅。
中学から大学まで、人格形成に最も重要な時間を共有した妻と再び巡り合ったこの奇跡。
インド最南端の聖地で初日を二人で迎え、私の旅はここに終わる。





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March 08, 2013

Kolkata, Again.3


夕刻に降ったスコールが昇華し切らぬ内に迎えた蒸し暑い夜。
ニューマーケットの雑踏。
纏わり付く人いきれ。
混雑した通りで擦れ違う度に接触する汗に濡れた他人の肌、鼻に衝く体臭に苛立ちを覚えずにいられない。
日本の家族や友人らへの土産物をと考えて複数の店舗を収容したニューマーケットまで来たものの、どの店でも「ジャパーニー」と気持ち悪い笑顔を振りまく店員が執拗に話し掛けて来る。
落ち着いて物を見ることも出来ない。
いい加減に腹の立った私は、ケチで有名と聞く韓国人になり済ますことにした。
 「ヘイジャパーニー、コニチワ。」
 「NO ! I'm from Korea ! Never call me Japanee !」
と言ったところで、
 「Oh... ko,コニチワー。」
と少し発音を変えて話して来る程度なので、彼らにとっては日本人も韓国人も余り大差が無いのかもしれない。

チョウロンギ通りも人で溢れ、歩道脇に居並ぶ屋台が狭い歩道を更に狭める。
思うように前に進めず苛立っているところで、不意に背後から声を掛けられた。
 「ヘイ、ジャパーニー。」
若い男の声。
振り返ると、私と同い年ぐらいの大人しそうな青年だった。
 「今ひとり?一緒に歩かないかい?」
またこの手か、と嫌気を覚える。
思い返すと一日目に引っ掛かった時もこの辺りだった。
 「嫌だ。」
そう言って前に向き直って歩くと男は話しながら付いて来た。
速く歩いて振り解きたいが混雑ぶりに思うように進めない。
 「僕はネパールから買い出しに来たんだ。チャイでも飲まないかい、ジャパーニー?」
 「要らない。」
 「ジャパーニー、おみやげは買ったかい?良い店を知ってるんだ。ぜひ紹介したい。」
 「要らない。」
角を折れてチョウロンギ通りから外れても男はしつこく付いて来る。
 「腹は空いてないかい、ジャパーニー。」
余りのしつこさに苛立ちも募り、私は立ち止まって真っ直ぐ彼に向き直った。
 「二度と俺をジャパーニーと呼ぶな。俺は韓国人だ。俺の名前はパクと言うんだ!」
そう言ってしまえば諦めてしまうだろうと思ったが、彼は目を丸くして驚いたように見せ、そして言った。
 「コリアは北かい?それとも南?」
 「当然南だ!」
どうやら何も効果は無かったらしい。
最早この様な輩にはまともに相手をせず無視に限る。
再び早足で歩き始めたが男はしつこく付き纏う。
 「ヘイ、コリアンガイ、おみやげは買って帰るんだろう?」
 「君は英語が上手だね。」
 「インドは初めてかい?」
色々と聞いてくるが何も応えずまた角を曲がったところで、「ヘイ、ジャパーニー。」と突然左脇から声を掛けられた。
 「ジャパーニー、僕を憶えてるかい?」
立ち止まって見ると、声の主は一日目に私を引っ掛けた自称バングラディシュ出身の青年だった。
彼は落ち着いた声で話した。
 「僕はあの朝君のホテルまで行ったんだ。なのに君はチェックアウトした後だった。」
もはや観念するしかない。
私は素直に謝ることにした。
 「ごめん。実を言うと、あの日本語を話す男が良い人間に思えなかったんだ。」
 「…良い勘してるね。約束を憶えてるかい?今度は僕にチャイを驕ってくれることになっていた。」
 「もちろん憶えているさ!チャイを飲みに行こう。近くに良い店は知ってるかい?」
彼は空に映る地図でも見るかのようにやや上を向いて思案した後、「こっちだ」と言うように右手を振って合図した。
自称ネパール出身の男はいつの間にか何処かへ去っていた。

ナトリウムランプの黄色い灯りに照らされた夜道を連れ立って歩く。
薄暗いけれどもぽつりぽつりと点在する店が昼白色の光を投じ、ナイトライフを楽しむ若者が闊歩する。
気怠そうな若い店員の頭上で煌々と輝くパステルカラーの看板だけが、若い男女を呼び込まんと奮闘している。
彼が案内したチャイ屋は、そんな中にありながら、コンクリートを打ち付けただけの地味な店だった。
適当に並べられたボロいテーブルの下に押し込まれた丸いパイプ椅子を引き出し、約束通りチャイを2杯注文した。
程なくして緑がかった耐熱グラスに注がれたチャイが運ばれ、ずっと無言だった彼が口を開けた。
 「日本も今は暑いのかい?」
 「いや、今は一番過ごしやすい時期だ。日本が一番暑いのは8月さ。」
 「インドとは違うんだね。暑い時期で何度ぐらい?」
 「一番暑くて36℃ぐらいだと思う。」
ひと口チャイを飲み、また口を開いた。
 「日本では月に幾らぐらいサラリーを貰えるんだい?」
 「25万〜35万円ぐらいかな。」
 「ドルで幾ら?」
 「2,000〜3,000ドル。」
 「そんなにも…」
 「でも税金も物価も高いから、ちっとも金持ちにはなれないのさ。」
 「日本の人口はどれぐらい?」
 「だいたい1億5千万人ぐらい。」
 「日本の冬ってどんなの?」
 「日本の…?」
 「日本では…?」
彼は矢継ぎ早に日本についての質問を繰り返した。
一頻り質問を終え、チャイを飲み干したところで、最後に彼は物怖じるように訊いた。
 「日本のお金を貰えないか?」
これはインドで出会った数人からも訊かれたのだが、残念ながら日本円を入れた財布はホテルのセキュリティボックスに置いて来てしまった。
 「ごめん、いま日本円は持ってないんだ。代わりにこれはどうかな?」
と言ってバンコクで買ったドラえもんの腕時計を出してみた。
やはりインド人はドラえもんを知らないのか、彼は腕時計を持って不思議そうに見回した。
 「これ、本当にいいのかい?」
とても手に入らない物を貰えることを驚いたように彼が尋ねた。
 「君が気に入ったのなら、喜んで。」
 「Thank you. Thank you very much.」
よほど嬉しかったのか、彼は感謝の言葉を繰り返した。

店を出て彼と別れた。
彼が本当にバングラディッシュの出身かどうかは最後まで分からなかったが、最後に彼と再会できたこの縁に、私の初インド旅は思い残すことなく締め括られた。
 「Good-bye.」
と手を振る彼の手には、早くもドラえもんの腕時計が巻かれていた。


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January 19, 2013

Kolkata, Again.2


宿命と書いて【さだめ】と読む。
即ち神に定められた運命。
結局人は神の敷いたレールから逃れることは出来ないのか。
2010年1月1日を以って離婚した私だったが、2011年の正月をバンコクで、2012年はマドリード、そして2013年はインド亜大陸の最南端・カニャクマリでと、それぞれの新年を新たなパートナーと迎えて来た。
新たな―――もとい、本来のあるべき形に戻っただけなのか。
それにしてはひどい遠回りをさせてしまったことを悔いるものの、それはそれで必要なプロセスだったのかも知れない。
誰も信じないだろうが、高校生の頃にいずれこうなる事は予見していた。
運命の人と言えば肯定的に聞こえるものの、私にとって運命とは受け入れ難い現実であり、傲慢な神の手から逃れようと約20年も必死に足掻き続けて来たのだった。
しかしながら元の鞘とは能く言うもので、いざ受け入れてみるとその居心地は良く、平安な心持ちに包まれる。
何故もっと早く気付かなかったのか。
俗なる人間ゆえ、モーゼ率いる烏合の群れの如く荒野を彷徨うことになったのに違いない。
神の定めたカーストを従順に受け入れる彼らは、世俗より一段高い所で生きているのかも知れない。


翌朝、ホテルの前の国道でタクシーを拾い、ダムダム駅から地下鉄でサダルストリートに向かった。
本来ならこの日にバラナシからコルカタに戻って来る予定だっただけに何もすることが無く、とりあえず心もとない現金を両替するついでに土産物を探す必要があったという理由もあるが、それにも増してまたもう一度あの美しい路上生活者に会いたかった。
昨日100ルピー紙幣を渡したものの、彼女の様な身分では却って使いづらいのではないだろうか、釣銭が無いからとちょろまかされたりはしないだろうかなどと心配し、今日の両替でもっと細かく崩してもらおうと考えた次第だった。

エスプラネード駅で地下鉄を降り地上に上がると、空は暗雲垂れ込め、地上では生温かい風が吹き、今にも大雨の降る雰囲気が漂っていた。
間もなく大粒のスコールが猛烈にサダルストリートを襲ったが、足早に歩いた私はなんとか両替屋の軒下に滑り込めた。
空は陽が落ちた後のように暗くなっていた。
強化プラスチックのクリアボードの前に座る親爺に20ドル紙幣とパスポートを渡すと、彼はパスポートの顔写真と私とを怪訝な目で見比べ、結局何も無かったように引出しから札束を出して黙々とルピー紙幣を数え始めた。
旅行前に二枚刈りに頭を丸めたものだから、訝しく思うのも無理はない。
彼は黙り切ったままパスポートを私に返し、次いでルピー紙幣を差し出した。
 「この100ルピーを10ルピー紙幣に崩して貰えないか?」
と訊くと、親爺は訊き返した。
 「何故だ?」
昨日会った母子のことを話すと、親爺は何も言わずに10ルピー紙幣を念を押しながら数えるように一枚一枚カウンターの上に押し付けながら重ねていった。
店の外の雨は依然強く、3人の欧米人が軒先に掛け込んで来て雨宿りを始めたかと思うと、両替屋の親爺に「Hey !」と笑顔を見せてまたすぐ走り去った。
好ましく思わないのか、親爺は鼻息を強く吹いた。
10枚の10ルピー紙幣と共に渡された領収証に署名すると、親爺は口を開けた。
 「ワシも昔は両替商を自分で営んでいた。それが交通事故で全てを失った。一時は家も無く、路上で暮らした。今では雇われて両替商をやっている。全ては神の思し召しのままにだ。」
そう言って彼は壁に掛けてあるモスクの絵に触れ、その手を額に当てて目を瞑り、祈りの言葉を呟いた。

雨が止んで両替屋を出ると、途中で昨日二人の乞食に連れて行かれた店に寄って粉ミルクを買い、再びインディアン・エアラインへ向かった。
彼女は私を待っていたかのように立っていた―――夫と娘と共に。
夫がいることにも驚いたが、その夫と娘が小奇麗な服装に身を包んでいる事にも驚いた。
彼女は夫に私を紹介し、彼は私の手を握って何度も有難うと言った。
5〜6才ぐらいになる娘も同じく「Thank you.」とはにかみながら微笑んだ。
彼らは粉ミルクのお土産に喜んでくれた。
驚きの余り、結局10枚に分けた10ルピー紙幣は出しそびれてしまった。

これしきの事で彼らを貧困から救ったことにならない事は分かっている。
焼け石に水程度のものに違いない。
所詮は自己満足に過ぎない。
両替商の親爺の祈る姿が瞼に焼きついて離れなかった。
飢えも貧しさも、全ては神の定めたこと。
その真意を理解することなど人間には出来ない。
だから彼らは全てを受け入れて路上で生活しているのだ。
現実に不満を言わず宿命を受け入れるインドの路上生活者こそ、聖なる高みに座している尊敬すべき人々に違いない。


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