November 2007

November 20, 2007

13th November.


フランスの南西部、ピレネー山脈の麓にルルドという小さな街がある。
ルルドはカトリック教徒にとって最大の巡礼地の一つであり、そこに湧く泉は難病・奇病を治すと言われ、世界各地から病に苦しむ人々が集まる。
泉が発見されて以来約150年、巡礼の旅路は救いを求める祈りと共に幾重にも踏み重ねられている。
今でこそ交通が発達しているものの、かつてある者は自力で歩き、ある者は車椅子に押され、病による痛苦からの解放を夢みて巡礼の道を歩んだに違いない。


先日の11月13日、友人の通夜に参列した。
食道がんと診断され食道を摘出したものの、若い年齢だけに転移が早く、再入院する運びとなった旨を本人から聞いたのがついひと月半前のことだった。
彼の病院は私の勤務先の目と鼻の先だったので、年内に一度くらいは見舞いに行かないとと思い悩んでいた矢先に、突然の訃報が届いた。
幾ら悔やんでも悔やみきれない。

癌で迎える最期ほど壮絶なものはない。
私の叔母は膵臓がんで入院後3ヶ月で亡くなった。
体調が落ち着いていたので彼女の娘が初めて病室(個室)に泊まった夜、容態が急変し、「助けて」と断末魔にも似た叫び声を上げた後、動かなくなったという。
長期に渡る入院でモルヒネを何度も投与されていたなら幾らかマシなのかもしれないが、身体の内側から生命を破壊される苦痛・激痛は、我々の想像を遙かに超越しているに違いない。
その事を思うと、私は癌で亡くなった人にいつも「お疲れ様」「楽になれて良かった」と遺影に手を合わせながら心の中で声を掛けずにいられない。
苦痛からの解放という意味においては、死もまた即ち「救い」と言えるのではないだろうか。

ならば「解脱」もまた救いと言えよう。
苦界と呼ぶ程に四苦八苦に満ちた生を繰り返す輪廻転生の無限ループから脱却する為に、悟りを得んと古来人が歩んだ巡礼の道が日本には数多くある。
世の理の真実を悟り、執着を捨て、無に帰すことで救いを得んと雲水らがひたすら歩き続けた道。
その一つの熊野古道には、果無峠(はてなしとうげ)というその名を聞くだに恐ろしい峠がある。
その峠には古の時代に敷かれた石畳が今も現存しているという。
古人が踏んだその道に想いを馳せる。
救いを求める祈りを込めて踏みしめた熱い想いが今にも呼び起されそうな力を感じずにいられない。

私も、たとえこのまま在家であろうとも、一巡礼者としてこの生を歩みたい。
旅することで人生の意味を、世界の真実を考えたい。
誕生日を迎え、改めて生きる指針を考えるきっかけとなった。

先日の11月13日、また一つ大人の階段を上りました。


余談ながら、11月13日と言えば一家人を通した詩人・メアリー=フライ(Mary Frye、アメリカ、1905年)の誕生日でもある。
日本でも最近になって有名になった『千の風になって(Do not stand at my grave and weep)』は、世界的にはかねてから人々に親しまれ、慰霊祭などでは必ずと言ってよいほど演奏され歌われる慰めの曲であるが、この曲の基となる原詩を書いたのが、誰あろうこのメアリー=フライなのである。

願わくば今も嘆き悲む全ての人の上に慰めが与えられんことを。


(今日の写真:たそがれ at なんばパークス/大阪)
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071120

scott_street63 at 23:25|PermalinkComments(2)TrackBack(0)