March 2008

March 31, 2008

深夜行


夜の帳に構内が包まれた頃、急行列車はごとり、と重い音を立ててゆっくりと走り出した。
私の目の前では淡いピンクのパンジャビドレスを身に纏った少女が嗚咽を上げながら、いつまでも駅に残っているボーイフレンドに手を振り別れを惜しんでいた。
18時45分バラナシ発コルカタ・ハウラー行き急行列車。
間もなく橋を渡る轟音が響き、ガンガーの水面に幾つも並んで映る燈火に私は無言で別れを告げた。

駅構内で停まっている間は黙って座っているだけでも玉のような汗が噴き出す程蒸し暑かったのだが、ひとたび走り出すと、夜気を含んだ風が開け放たれた窓から流れ入り渇きを癒してくれた。
先ほどの少女は父親に優しく背を押され、客室へと消えて行った。
私はつい先ほど人でごった返した当日券売り場で出発間際の切符をなんとか入手したばかりで、席の指定が無かった。
駅員に聞いたところ、乗ってから車掌に相談しろ、とのことだった。
私は客室の外で車掌を待つほかなかった。
偶々誂えられたような折り畳み椅子があったので、バックパックを床に降ろしてそこに腰を掛けて休むことにした。 

バラナシの隣り駅・ムガル=サライを出発すると、列車はスピードを上げた。
暫く停まる駅は無いということだろうか。
窓から見える風景は草木のシルエットばかりで、あたかも闇を切り裂くように急行列車は走った。
客室からは時々談笑が聞こえて来たが、ここでずっと一人で静かに座っているのも悪くないとも思えて来た。

客室の扉が開き、車掌らしき制服を着た恰幅のいい男が来て、「Ticket.」と語気を強めて私の前に手を出した。
私は彼に切符を渡しながら立ち上がった。
 「座席を指定したいんですけど。」
 「あんたの席は?」
 「さっきバラナシで買ったばかりで、席はまだ決まってないんです。」
彼は私の切符を一通り見た後、客室台帳のような黒いノートを開いて幾つかページを繰った。
 「空いていれば、A/C(エアコン)付き2等寝台がいいんですけど…」
私が追いかけてそう言うと彼は台帳を閉じ、彼が先ほど検札を終えて出て来た客室を指差した。
 「あの席なら空いている。」
指の先を眼で追ったが、どこの席か分からなかった。
 「どれです?」
 「一番手前の左側、扉を開けてすぐの席だ。」
しかし既に6人掛けの席に6人が座っている。
 「人が座ってるじゃないですか?」
 「かまわん。彼らには別の席がある。」
ホントだろうか?私は恐る恐る扉を開け、座っている6人に聞いてみた。
 「車掌がここに座ってもいいと言ってるんですけど、本当にいいですか?」
 「Of course. Sure.」
と快く答えてくれたものの、それでも彼らは一向に立ち上がる気配を見せない。
困惑している私を見て、彼らはただニヤニヤ笑っているだけだった。
 「…他の席は無いんですか?」
 「ない。」
無碍もない返事。
私は、もしもここに座ると彼らから報復のような嫌がらせを受けるんじゃないだろうかと恐れて、なんとか別の方法はないだろうかと思案した。
天上では扇風機が音もなく回って風を送っている。
 「ここはFANじゃないか。A/Cじゃない。」
 「なぜA/Cじゃないといけない?」
 「暑いから。」
 「今夜は暑くない。」
確かに、言われてみれば外から流れて来る風のおかげで暑くはない。
しかし暑いか暑くないかなんて個人差があるものじゃないか。
…と思っても、車掌の余りにも堂々とした受答えにこちらの旗色が悪かった。
 「それに、この列車には初めからA/C車は無いんだ。」
最初にそれを言ってくれよ…。
私と車掌のやり取りを6人の男達はやはりニヤニヤと笑顔を浮かべながら観察していた。
 「じゃあもうここでいいです。」
と私が客室の外の折り畳み椅子を指すと、「No.」とハッキリ断られた。
 「そこは私の椅子だ。」
あ、なるほど。
もはや私には車掌が指定した席に座るほか道は無く、渋々OKと言わざるを得なかった。
車掌はつい先刻まで私が座っていた簡素な椅子に腰を下ろし、私から追加料金を取ると赤字で切符に何かを書き込み、再び立ち上がって彼らをその席から追いやった。
彼らは意外にも素直に本来の席へと戻って行った。

私は向かい合う3人掛けの座席を独占することとなった。
頭の後ろには壁に埋め込まれた形でベッドが収納されている。
さらにその上には収納されることのないベッドがあり、赤字で書かれた座席番号からそこが私のベッドということだった。
私はバックパックを一番上のベッドに乗せ、チェーンロックで柱に括り付けた。
時間はようやく9時を回る頃だった。
コルカタ・ハウラー駅への到着予定時間は翌11時45分。
あと14時間の深夜行。
外は何も見えず、車内から投下される灯りが大地を照らしている。
ただひたすら響くレールの繋ぎ目に車輪の落ちる音が、まるで永遠に続くように思えた。


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scott_street63 at 23:58|PermalinkComments(2)TrackBack(0)  | インド