March 2009

March 27, 2009

ガンダーラ


三連休を利用して一人で大連へ旅に出た。
とかく世には雑音が多い。
誰にも、何にも妨げられず、たとえ一日だけであっても静かに過ごしたかった。
自身の中で響くエコーに耳を傾けたかったのだ。
私という人間を定義付ける枷を解き、何者でも無い真の自身と対話する静寂に包まれた甘美なる時間―――私はそこに理想郷を見出す。
ガンダーラはかつてインド北部で繁栄した王国だった。
王朝下で仏教が擁護され、優れた仏教美術が栄華を誇り、遥か中国から僧侶らが憧れこの地へ旅したものの、紀元5世紀、異教徒の侵攻により滅亡した。
しかしガンダーラは今も人の心の中で理想郷として存在し得る。
輪廻転生を基とする仏教思想の下に在って天国や地獄などという思想が何処から生まれたのか、日本では古来より極楽浄土は西に在ると言われて来た。
しかしかの禅僧・一休宗純は、南に在ると異を唱えた。
即ち、「みんな身」の内に在る、と。
私のガンダーラは私の内にこそ在る。


 「今まで旅した所で何処が一番美しかった?」
不意にそう訊ねられ、非常に困惑したことがある。

世界遺産の街・クラコフを発って急行列車で約5時間、ポーランド第3の都市・ヴロツワフに到着した。
ヴロツワフは雪だった。
外は既に暗く雪に覆われ、尚も降りしきる雪で足元が悪く視界も利かない中、私と妻はバックパックを担ぎながらガイドブックの地図だけを頼りに無謀にも約1.5km離れたホテルへと徒歩で向かった。
途中道に迷いながら、また骨身に凍みる内陸独特の寒さに幾度か挫けそうになりながら、1時間近くかけて何とかホテルにチェックインした時には、手足の先の感覚が麻痺しかけていた。

翌朝、妻が韓国留学中に親しくなったポーランド人・ユアンナが案内のためにホテルまで迎えに来てくれた。
彼女は妻と抱き合いながら再会を喜び、
 「卒業する時みんな来てくれるって言ってたのに、本当に来てくれたのはユキコだけよ。」
と拗ねて見せたが、韓国語を学びに来るのは殆どが日本や中国など近隣の国出身の若者の為、ポーランドまで友人を訪ねる方が寧ろ酔狂と言えなくもない。

ヴロツワフは静かな街だった。
空一面に低く圧し掛かる重厚な雪雲の下、石畳を敷いた路面や街中の赤い瓦屋根は雪で覆われ、それらが余計な雑音を吸収しているのか、人の営みの発する音がまるで耳に障らない。
観光客を喜ばせる大仰な建造物もひと際目を引く派手な装飾も乏しく、その慎ましい街の姿に「静謐」という言葉が自ずと頭に浮かんだ。

二人は主に韓国語で会話し、私に話し掛ける時だけ英語で話した。
我々はまず旧市庁舎の置かれた中央広場へ行き、ヴロツワフ大学の敷地を抜け、オドラ川の中洲にある大聖堂へと向かってひたすら歩いた。
防寒対策は万全の筈だった。
私は底の分厚い本革のトレッキング用ブーツを履き、ズボンの下には生まれて初めて股引を履いた。
妻などはブーツの中に使い捨てカイロを入れていた程だったのだが、余りの寒さと地面の冷たさに、もはや痛みすら感じなくなるのではないかと思えた。
 「大聖堂はもうすぐそこだから、頑張って。」
とユアンナの言葉に背を押され、中洲へ渡る橋を目指して公園の中に入った。
川岸には流氷のような氷塊が幾つも漂着していた。

ふと、人の歩かない雪の上に小さな足跡を二つ見つけた。
鳥と猫の足跡だった。
私は未だ誰も踏んでいない雪の中へと足を踏み入れその二つの足跡を追ったが、やがて両者ともベンチの下をくぐって茂みの中へと消えて行った。
追跡を断念し屈めた腰を伸ばして振り返ると、真っ白な雪の上に私の軌跡だけが真っ直ぐ鮮明に浮かんでいた。

大聖堂を出た我々は、食堂のガラス張りのテラス席で雪の街を眺めながら昼食をとり、ユアンナの勧めるホットワインに舌鼓を打った。
数種のスパイスを混ぜて温めたホットワインは特にシナモンの香りが強く、凍えた身体の五臓六腑に沁み渡る様で、その刺激は真夏日のカルカッタの路上で飲んだチャイを彷彿させた。
妻がトイレに席を立つと、ユアンナは私に訊ねた。
 「ねぇ、今まで旅した所で何処が一番美しかった?」
ありふれた質問だった。
旅行好きの人間を前にすれば誰もが訊ねるような、殆ど社交辞令に近い平凡な質問だったのだが、美しいとか美しくないとか、私にはそんな概念が無いという事実に初めて気付かされた。
カルカッタのハウラー駅での出来事が脳裏でフラッシュバックした。
ジューススタンドでセブンアップを注文したところ、店員が私に訊ねたのだった。
 「何故だ?何故セブンアップなんだ?」
まさかそんな事を訊かれるとは思わず戸惑いながら、好きだからだ、と答えた。
 「何故好きなんだ?」
戸惑いを通り越してもはや驚愕するしかなかった。
私の秘された部分を明るみに引き摺り出そうと試みるかの様な、否、外面に現れた私を通して無意識下に眠る真の私に話し掛けられているような錯覚をハウラー駅で覚えたのだが、今再び私は回答を求めて私の内部へと旅立たなければならなかった。
平穏で、静寂に満ちた真っ白な場所……真っ白な雪の上に綴られた私の足跡が眼前に浮かぶ。
 「きっと信じてもらえないと思うけど…」
と前置きして、私はヴロツワフの名前を挙げた。
言葉にした途端、私の中にガンダーラがもう一箇所出来た。

静寂に包まれて自分の中へ旅に出る。
私はいつまでこの世で雑音に苛まれながら自分自身を偽り続けるつもりなのか。
またいつかこのガンダーラを訪れようと、強く思った。


(今日の写真:大聖堂へ続く公園 at ヴロツワフ/ポーランド)
090326

scott_street63 at 01:31|PermalinkComments(0)TrackBack(0) | ポーランド