December 2009
December 31, 2009
Say Good-Bye to the days passed.
大連発ハルピン行きの夜行列車を待つ大晦日。
日中の最高気温がマイナス20℃を下回るという想像を絶するハルピンの冬に憧れ、昨日また大連に降り立った。
予め1泊分を予約しておいた大連駅前のホテルで翌日のレイトチェックアウトを申し込み、余分に支払った半日分の時間を無為に、あるいは読書に耽りながらのんびりと過ごす。
中国まで来て読むパール・バックの『大地』に格別の味わいを覚える。
旅が好きなのかと尋ねられると回答に窮する。
「好きなのかどうか判らない」としか答えられない。
出来ることなら旅になど出たくない。
新天地への不安や恐れが興味関心を下回ることは決してない。
こんな苦しい思いをするぐらいなら家で安穏と過ごす方が何倍もマシだと何度も思う。
にも拘わらず、また私は旅に出る。
葛藤に苛まれながら、胸を躍らせることもなく、独り見知らぬ街を歩く。
私にとって旅とは、逃避しきれぬ現実に対する強硬手段なのだろうか?
文章を書くことが好きなのかと問われても、私は「判らない」としか答えられない。
魂を削りながら産み出す苦行に近い書くという行為。
私にとって文章とは、自己の生を証明する手段でしかない。
誰に対してでもなく、自分自身に対して証明するだけの行為。
そうしなければ己の存在を見失いかねない恐怖に駆られながら書く。
旅も同じく、己の生と存在を確認するための手段でしかない。
この苦しさを、この葛藤を、「好き」などという一語でインスタントに片付けられるものではない。
「好き」という言葉は余り好きじゃない。
そこに思い至るまでの過程を、葛藤や歓喜を、そんな二文字で一括りにしてしまうなど、乱暴と言わず何と言おう。
己の心情を漏らさず胸の内に秘めておくことを美徳と見なすこの国の土壌では、好意を表す言葉は余り発達しなかったのか。
自分の思いを表現するに当たってぴたりと当て嵌まる単語を見出せず、常に苛立ちを覚える。
ただ一言、「好きだ」と言えば片付く問題がある事実も知っている。
一時期、自分のことを好きかと妻が頻りに訊ねて来た。
「判らない」と答えた私から彼女は離れて行った。
しかし平然と「好きだ」と答えた所で、結果が変わったわけでもあるまい。
出発まであと一時間を切った。
厳寒の地へ、独り向かう。