April 2011
April 30, 2011
Busy for Life.
人は何故こうも生きるのに必死なのだろうか。
キリストは言った、人はパンのみにて生くるに非ずと。
人には2種類の生命がある。
一つは肉体のそれであり、もう一つは霊(精神、自我)である。
肉体が死ねばどちらも亡くなろうが、自我を殺して生き永らえる肉体に何の意味があろうか。
ガンジーは言った、明日死ぬように生き、永遠に生きるように学べと。
生無くして死は無く、死無くして生もまた無い。
生と死は表裏一体を成し、対義語であると同時に同義語である。
死を意識しながら生きるなら、その生は輝きを増すに違いない。
必死の宿命を知ろうとも、決して生を諦めてはならない。
トルストイは言った、生の目的は幸福の獲得であると。
しかし同時に、己我の幸福を追求する限り人は決して幸福にはなれない。
他者の幸福の為に生きてこそ人は真に幸福を得る、即ち隣人愛をその著『人生論』で説いた。
この生のパラドックス。
然しそれは真実に違いないと判っていながら諦めきれない私は、やはり未熟者に違いない。
2011年4月29日、私は再びウルムチの地を踏んだ。
明日カシュガルへ飛び、クンジュラブ峠を越えてパキスタン・フンザを目指す。
昨日、父方の祖母が特別養護老人施設から病院に移った。
大病を患ったことのない祖母だが、98歳ともなると流石に肉体が限界に達したのか、先週から殆ど物を食べなくなった。
施設が勧める病院で検査したところ、医師は多臓器不全および心肥大と診断し、いつその時が来てもおかしくないと所見を語った。
危篤状態にありながら彼女の意識は明確であり、質問すれば回答する。
静かに老衰を待つ祖母を置いて旅に出る私を愚か者と言わず何と言おう。
カミユ著『異邦人』で、主人公ムルソーは母の死を電報で知ったその日、海水浴へ出かけ、映画を観て笑い転げた。
裁かれるなら甘んじて裁かれよう。
大衆の嘲笑に晒されながら絞首台へと向かうことを夢見るムルソーの気持ちは解らないでもない。
死に行く者の為に生きている余裕は無い。
こうして書いている毎分毎秒、私もまた死へ向かっている。
生きるとは即ち死に行くことなのだ。
私は今を生きるのに忙しい。
裁かれるなら甘んじて裁かれよう。
大衆の嘲笑に晒されながら、いざ絞首台へ。
April 16, 2011
A long night in Kolkata 2
サダルストリートを目指して夜の街へ飛び出すと、玄関前に皺くちゃの爺さんがリクシャー(人力車)の持ち手を地面に休ませて座り込んでいた。
「ヘイ、ジャパーニー、何処かお出かけかい?」
嗄れた声でにこやかに話しかけて来たが、こんな年寄りに1時間もかかるサダルまでなんてとてもじゃないが頼めない。
「サダルストリートまで行くんだ。」
「オーケー、オーケー、50ルピーで行くぜ。」
何キロも離れた所までたった約125円で行くと言うのか?
いくらインドだからって安すぎる。
「サダルって遠いんだろ?出来るだけ早く行きたいんだ。」
「ノープロブレム。50ルピー、O.K.?」
「だめだ。30ルピーだ。」
突然ホテルのドアボーイが横から割って入ってきた。
背は高くないがガッチリした体格のいかつい男で、ドアボーイと言うよりもむしろ門番と呼んだ方が相応しい。
男は爺さんを睨み付け、渋々30ルピーで了解した爺さんのリクシャーの座席へと私を丁重に促し座らせてくれた。
リクシャーは夜の街をゆっくりと走った。
人力とは言え車なのだから「走った」と表現する他ないのだが、実際には彼は歩いていた。
えっちらおっちらとゆっくり歩き、時折ひどく咳き込むものだから、このまま心臓発作でも起こして死んでしまうんじゃないかと気が気でなかった。
しかし人力車でゆっくりと往くというのもなかなか風情があって良い。
京都の八坂神社辺りを人力車に乗ってみるのも良いかもしれないと、インドまで来てそんなことを思った。
三叉路を左折した所で彼は尋ねて来た。
「で、何処まで行くんだい?」
「え…、サダルだよ。サダルストリート。」
ついに呆けたのかと一瞬冷や汗をかいたがそうではなかった。
「ここがサダルストリートだよ。」
驚いた。
10分もかからず着いたと言うのだ。
さらにもう少し直進してもらうと、次第に若い欧米人や日本人が道に溢れて来た。
なるほど、確かに安宿街の集まるサダルストリートらしい。
フロントスタッフの言った「1時間」とは何だったのか?
空港から乗ったタクシーも、「あと1キロ」、「あと5分」と言っておきながらなかなか辿り着かなかった。
アバウトにも程があると言うべきか、つまりそういう国民性なのか。
リクシャーには適当な所で降ろしてもらい、最初に言った50ルピーを渡すと大層喜んでくれた。
サダルストリートを歩いていると、しばしば「ジャパーニー」と声を掛けられた。
それは物売りであったりタクシーであったりリクシャーであったり物乞いであったり、あるいは単に好奇心で声を掛けただけであったり…
いや、むしろ皆好奇心だったのかもしれない。
とにかくインドの男は大人になっても無邪気なのだ。
そのまま真っ直ぐ突き抜けると自動車が勢いよく走る大きな道路に出た。
車の通りも激しいが、歩行者の数も並ではなく、皆押し合い圧し合い歩いてる。
ただでさえ人の多い歩道だというのに、そこに露店もずらりと並んでいるものだから窮屈なことこの上ない。
なるほど、ここがチョウロンギ通りかと、ようやく自分の位置を確認した。
夥しい人混みの中を歩いていると、また「ヘイ、ジャパーニー」と声を掛けられた。
振り向くと、柔和な顔をした人の良さそうな青年だった。
「一人かい?良かったら一緒に歩かない?」
こちらも特に行くアテがある訳でもないから、またゲイだったら嫌だなぁと思いながら
「いいよ。」と答えた。
タイやラオスでは何度かゲイにナンパされている。
どうやら私の顔は男が好む人相らしい。
歩きながら私らは話した。
彼はバングラディシュから定期的に買出しに来ているらしく、カルカッタにいる時は叔母の家で滞在しているらしい。
彼は私に、いつカルカッタを出るのか、バラナシからいつまた帰ってきていつ日本に帰るんだと詳しく聞いてきた。
彼の自然で奥ゆかしい振る舞いから何も隠さず話すと、彼は言った。
「キミは英語が上手いね。」
そんな筈がない。
私の英語は中学生レベルだ。
わざわざそんなことを言うのは私をおだてて気を良くさせようという魂胆なのだと、今までの経験が警告を放つ。
「ところで、ここら辺でチャイでもどうだい?いい店を知ってるんだ。」
警戒しながら、しかしチャイという言葉に惹かれてそのまま付いて小さな食堂に入った。
1杯5ルピー。
私が金を出そうとすると彼に止められた。
「これぐらい驕るよ。その代わり、次の機会に出してくれたらいいから。」
「ヘイ!アーユージャパニーズ?」
いきなり隣のテーブルにいた男が話しかけてきた。
「コニチハ。ワタシハ日本ノ埼玉ニ3年間住ンデマシタ。ワタシ日本人ダイ好キ。」
偶然にも私らの席の隣りは日本語の堪能なインド人だった。
(つづく)
April 02, 2011
No title.
このブログの主旨は旅にある。
実は私の文章の訓練を主たる目的として開設している。
もしも読者が拙文を読むことで旅する気持ちを分かち合えたなら幸甚この上ない。
しかしここは飽くまでも仮想空間でしかなく、紛うことなき現実を眼前にすれば脆くも崩れ去る白昼夢に過ぎない。
強烈な現実に打ちのめされた今、数年をかけてこの浅薄な世界に形作った自分の空間はいとも簡単に色褪せてしまった。
私には現実を書き留めずしてこのブログを平気で続ける度胸はない。
あの日、大阪市本町のオフィス街が静かに揺れた。
不穏な横揺れが2分程続いただろうか、異常に長く感じられた。
すぐにNHKを付けろという言葉にテレビのリモコンを操作する。
隣りのビルからは驚いた従業員がわらわらと道路に躍り出ていた。
震源は宮城県沖。
そしてすぐに発令された大津波警報。
モニターは宮城にある漁港の一つ、塩釜港を映していた。
津波警報は幾度となく聞いたことがあるものの、大津波警報とは…?
画面を見守りながらも海外からの電話やメールは容赦なく、
日常の業務から手を休める訳にもいかない。
「来た!」
一人の声にテレビの前に戻る。
その様はまるで浴槽から湯が溢れたようで、岸壁から水面が盛り上がって陸地を侵して行った。
その力は凄まじく、数々の漁船がいともたやすく弄ばれ、陸上へ押し上げ、
また海上へと引き寄せ、横倒しになった船を橋梁にぶつけた。
見れば海上の高架道路を走る自動車がUターンして引き返している。
旋回できずトレーラーが立ち往生している。
盛り上がる高潮に、もはやそこは「高架」道路には見えなかった。
画面はヘリコプターによる上空からの撮影に切替わる。
津波はまるで引くことを知らず、漁港から住宅街へと押し上げ自動車も家屋をも飲み込んで行く。
流される家屋、ぶつかり合い破壊される建造物。
子供の玩具のように軽々と浮かび上がる自動車に人が乗っていないことを祈る。
それだけでは飽き足りないのか住宅街の裏に広がる田畑まで侵し続け、
やがて逆流により氾濫した川の水と合流したことで更に力を増した。
見れば田畑の中の農道を自動車やトラックが走っている。
津波がすぐ目の前まで押し寄せていることに気付いているのかどうか。
画面の手前に波、右側にも波。
先ほど画面から切れた自動車の行方は如何に?
日常業務をこなしながら、テレビという小窓から非日常を覗き込む。
これは本当の出来事なのか?
自分はいま何処にいて何をやっているのだ?
手元の日常と遠くの惨状の差異に目眩を覚えずにはいられない。
強烈な現実にただひたすら息を呑んだ。
私だけでなく大津波による惨劇を報道を通じて衝撃を受けた全国民が喪に服するように暗い日常を過ごす今日、日常とは張りつめた1本の細糸だけで均衡を保つ危うげな世界なのだと改めて実感する。
ウェブという虚構に己の巣を築くようにブログを維持し続けて来たが、目の醒めた今、全てが虚ろに目に映る。
陰鬱な気分が続き、ブログの継続を断念しようかという考えも起こった。
かと言って日常を放棄するわけにはいかない。
こうして生き残った今、我々は与えられた生命を燃焼し尽くす義務があるとさえ思える。
東日本大震災だけでなく、世界の全ての場所で起こる災害や戦争、飢餓や難病の犠牲者を思えば、それは最低限の使命ではないだろうか。
日常を死守せよ。
生命という釜に薪をくべ続け、機関車の如く疾駆せよ。
生きとし生ける全ての者の最低限の義務と心して、私は今日を生きることにする。
いずれその日が来るまで、私は生きる。