May 2012
May 08, 2012
A long day in Varanasi. 2
何の自慢にもならないが、私は忘れ物が多い。
物忘れも多い。
その上遅刻・寝坊も頻繁なものだから、社会人として生活している現況は何かの間違いとしか思えない。
このインド旅行で忘れたのは腕時計だった。
1ヶ所滞在のバカンスならむしろ不要な物だが、移動に次ぐ移動を要する旅に腕時計は欠かせない。
時間を確認する度にポケットから携帯電話を取り出すのは煩わしいものだ。
そこで、途中に寄ったタイのバンコクで腕時計を調達した。
コルカタ行きの飛行機に乗る前に朝市に寄り、路肩にテーブルを広げて腕時計や目覚し時計を並べた親父に、
「一番安い腕時計をくれ。」
と言って差し出されたのは、ドラえもんの腕時計だった。
時計の文字盤一面に大きくドラえもんの顔が描かれ、赤い鼻を中心に3本の針が動いている。
100バーツ(約250円)と安く買えたものの、大人の腕に嵌めるには流石に恥ずかしく、結局カバンのポケットに入れて携帯することになったのだった。
とは言え、そうも言っていられない。
次の電話まで3時間という短時間のうちに出来る限りバラナシを堪能したい。
オートリクシャーで少し離れた所にも行ってみたく、時間を逐一確認するためにも恥を忍んで腕時計を嵌めることにした。
電話屋を出た私は一度クミコハウスに戻り、買ったばかりの服に着替えてスカーフも首に巻き、フィルムを5本バックパックから取り出して鞄に入れた。
川の中へと階段の続くガート沿いをパシャリ、パシャリと写真を撮りながら歩き、ゴードリヤ交差点でオートリクシャーを拾ってバラナシ・カントへ行ってみると取り立てて見るものもない閑静な住宅街を延々と歩く羽目になり、漸く旧市街へと向かうオートリクシャーを捕まえた時には既に3時間が過ぎていた。
歩き疲れて喉が乾いていた。
駅前の適当なカフェで降ろしてもらい、コーラを片手に店内の電話をかけた。
「ハロー?パスポートを失くした者です。日本人スタッフは帰って来ましたか?」
「マダデス。1時間後ニモウ一度カケテ下サイ。」
相変わらず問題は解決しない。
とりあえず空いている席に座って左腕を上げて腕時計を見た―――3時30分。
今日はもう諦めて明日コルカタに帰るとするか…と考えていると、一人の男が背後から首を伸ばしてきた。
「おい、これは何だ?」
男はすっ頓狂な声を出して腕時計を指している。
「ドラえもんだよ。知らない?」
私の質問には応えず男は友人を呼び、何事かと興味を持った他の客まで私の周囲に集まり出した。
大の男共がドラえもんの腕時計に興味津々となって互いに話し合っている。
「それ、メイド・イン・ジャパンか?」
一人の男が尋ねた。
「そうだ。…いや、バンコクで買ったからメイド・イン・タイランドかも知れない。」
「幾らで買った?」
「100バーツ。でも売らないよ?まだまだ必要なんだ。」
また男達が話し出す。
「バーツって何ルピーだ?」
「バーツもルピーもレートは同じだ。100ルピーだ。」
そんな声が聞こえて来る。
「ちょっと待って。売らないよ?まだまだ必要なんだ。」
「50ルピーでどうだ?」
「おれは60ルピー出すぞ!」
「聞いてないのか?悪いけどまだまだ使うから売ることは出来ないんだ。」
「幾らならいいんだ!?」
「だから売る訳にいかないんだ。」
そこまで言って漸く諦めて、男らは解散した。
店を出てまた最初の電話屋に戻った。
まだ少年が一人で店番をしている。
「4時半になったら電話を使うから、ここで待っててもいいか?」
と腕時計を見せて話すと、少年は突然外に出て大人の男を呼んだ。
父親だろうか、痩身の背の高い男がやって来て私の手首を取って腕時計を見始めると、またもや何事かと近所の男共に私は取り囲まれ、同じ押し問答を繰り広げることになった。
インド人はドラえもんを知らないのか?
あるいはドラえもんの腕時計を見たことがないのか?
それとも文字盤いっぱいにドラえもんの顔を描いたデザインが珍しいのか?
結局その疑問は解決されることはなかった。
時間が来て、電話をかけた。
「ハロー?パスポートを失った者です。」
「担当官ニ替ワリマス。」
終業前の5時前になって、ついに担当官が出た。
彼は言った。
「アサオケンジさんですね?先程あなたの泊まったホテルからパスポートを届けてくれましたよ。」
さすが一泊1,000ルピーも取るホテルだけある。
下手な安宿ならそのまま売られていても不思議ではない。
クミコハウスに戻ってパスポートが見付かった旨を久美子さんに話した。
「今なら6時45分の急行に間に合うかもしれないよ。今すぐ行きな。」
彼女はインドにあって日本の母ちゃんに違いない。
私は再びバックパックを担いで、日の傾き始めたガートを急ぎ足で歩き出した。
(つづく)