March 2016

March 23, 2016

Shangri-La.


翌朝、香格里拉行きの乗車券は難無く買えた。
9月21日(月)晴れ。
バスは青空の下、完全舗装の道路を軽快に走った。

信仰とは死への恐怖を緩和する為に在ると考える者は余りに浅薄で思慮に欠ける。
信仰は生きる上での行動原理あるいは規範であり、いずれ迎える死への道筋として在り得る。
死を間近に迎えた者だけでなく、今を生きる者にこそ信仰は在る。
然しながら、只信じることの如何に困難なことか。
遠藤周作著『沈黙』。
迫害されるキリシタンの祈ることしか出来ぬ無力。
神からの救いはおろか天上からは何の返答も無い。
圧倒的な人間の力に挫けた宣教師はキリストの絵をその足で踏むことになる。
信仰の揺らぐ時もある。
約束の地に向けてアブラム(のちのアブラハム)と共に旅に出たロトは、眼前に拡がる肥沃な大地に目をくらませ、その地に居を構えた。
その街の名は、罪深き者が蔓延るソドム――後に神の業火により殲滅される。

ソドムの比ではないが、予約していたシャングリラ・ブルーバードホテルは、2ツ星を謳いながら一晩とて泊まれない程に劣悪な宿だった。

香格里拉――シャングリラとは言わずもがな、世界中で一世を風靡したジェイムズ・ヒルトンの小説『失われた地平線』に登場する寺院の名称であり、転じて理想郷を意味する言葉となったのだが、作中でチベットの奥地と記されていたことからシャングリラ県と改名された、チベット族が多く暮らす土地を差す。
日本のメディアでも神秘的な地として度々取り上げられているが、実際に来てみると何のことは無い、よくある地方都市に過ぎない。
ビルや商店が建ち並び、自動車やバス、バイクなどがごく普通に走っている。
馬車や牛車など前時代的な物は見る影もない。
インドのバラナシと同じく、メディアは現実ではなく、無知な人民が有難く買求める「らしい」景色だけを切り取っているのだと、その地に来て初めて知る。
翌朝の出発に備えバスターミナル傍のホテルをインターネットで予約していたのだが、このホテルもまた「らしい」写真だけを切り取りアップロードしていたのだろう、現実では床は館内から室内まで砂埃にまみれ、久しく来客も無いのだろうバスルームは乾燥し切り、ベッドの上には埃が積もっている始末。
既に支払った宿泊代も惜しまず、汚な過ぎると言い捨てて即座にチェックアウトした。
やはり観光客は「らしく」観光地に投宿するべきなのだろうと考え、タクシーを捕まえ約5キロ離れた旧市街へ向かった。

古城と呼ばれる旧市街では、其処此処で木造建築の解体工事が行われていた。
狭い路地を重機が占拠し解体している傍らで、軽量鉄骨の建築が始まっている。
その足元では道路にレンガを嵌めこむ工程が進められている。
観光資源に力を注ぐ雲南省。
古臭い建築物よりも、より観光客が喜ぶ「らしい」街を造ろうとしているのか。
麗江でも同様、旧市街をアミューズメント施設として取り囲み、国内外の客を呼ぶ。
理想郷の名が鼻で笑う。

然しながら日本人にとってはある意味そこは理想郷かもしれない。
街の中には松茸料理や松茸鍋の看板が目立ち、商店では90リットル程のポリ袋に干し松茸を山積みにしている。
まだ手つかずの古民家が並ぶ住宅街の道端では、茣蓙の上にスライスされた松茸が天日で無造作に干されている。
松茸を大仰に有難がるのは日本人だけだとも聞くが、その通りなのかもしれない。
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 「喂、你×◇▲賓館〇■嗎?」
松茸鍋の店の前で初老の男に突然話し掛けられた。
何を言われたのか判らず戸惑っていると、中国語が解らない外国人であると察して、
 「Guest House ?」
と簡単な英語に言い換えた。
バックパックを背負って歩いているのだから香格里拉に到着したばかりの旅行者と思ったのだろう、彼は松茸鍋屋の脇にある戸口から階段の上へと手を小招いた。
Tin Yu戸口には『听雨軒 TIN YU XUAN HOSTEL』と看板が立っている。
听雨――雨音を聴くとは、何とも詩情に満ちた名前ではないか。
木造2.5階建て、一階は料理屋、二階はフロントとシングルルーム二部屋とツインルーム二部屋、階段を上って屋根裏はドミトリーとなっている。
板張りの廊下、階段、大きな切株を磨いたテーブルを置いたロビーなど、木の温もりの伝わる造りに甚く好感を持ち、即決した。

荷物を下ろし、散策に出る。
PASSAGE今にpassage 001も崩れそうな土壁に囲まれた木造の住宅街を歩いていると、タルチョと呼ばれる色とりどりの旗を無数に吊るしたロープの下を何度もくぐった。
それぞれの旗には仏陀の絵と経文が綴られている。
いかにもチベット文化圏に来たのだと実感する。
五本の道が交わる広場に建てられた仏塔は、天辺から幾条ものタルチョが張り巡らされ、胴にはマニ車が嵌められている。
マニ車を回すだけで経文を一度読んだことに数えられるとは、なんとインスタントな仏教かと思えたが、文字の読めない貧しい民衆にも徳を高める機会を与える工夫だったのかもしれない。
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この土地の人々は何を思ってタルチョを掛けるのか。
艱難の最中にある辛い思いをタルチョに託し、幾条も掛けることで癒しを求めるのか。
日系ペルー人の男に妻子を殺された日本の事件を思い出す。
一時に全てを失った彼の絶望感は想像に難い。
彼の心を癒すには一体何百条のタルチョが必要なのか。
日系ペルー人の罪は決して刑期で赦されるものではない。
キリストと並んで十字架に掛けられた重罪人は、イエスを神と信じたことによりその罪を赦され、死後に天の御国に入ることを約束された。
十字架刑とは極刑の中の極刑である。
余程の重罪でないかぎり十字架刑に処されることはない。
つまりゴルゴタの丘で十字架に架けられたその罪人は、余程の罪を犯したのだ。
観衆の中にはその重罪人に家族を殺された人間もいたかもしれない。
にも拘らず死後に天国に招かれるとは、遺族にとっては憤死してもおかしくない程に屈辱であり、死んでも死に切れないに違いない。
赦されたからと言って罪が無くなる訳ではないが、これでは余りに余りではないか。
人の善行が必ずしも神の義とするところでもない。
神と人とは価値観が異なると云うことだろうが、納得し兼ねる事もある。
それでも疑わず、只ひたすら信じ続けることにこそ信仰の意義はあるのかもしれない。
信仰を持つ人間として、妄信的にマニ車を回す愚直さこそ見倣うべき姿勢に違いない。


眼前に10メートルはあろうかという黄金の塔が建っている。
xianglira 001奇麗に整備された広場に建つ亀山寺という古い寺の階段を上ってその塔に行き着くと、それは塔ではなく巨大なマニ車なのだった。
初対面の男らが目と目を合わせると、暗黙の了解で巨大マニ車の胴を囲むハンドルを手に持ち、数人がかりで走って回し始めた。
マニ車に施された阿弥陀如来のレリーフが何度も目の前を過ぎて行く。
青い空の下で回転する黄金の巨大マニ車を見上げながら、己の脆弱な信仰心が逆に心地良かった。

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scott_street63 at 00:20|PermalinkComments(0)TrackBack(0) | 中国