June 2016

June 09, 2016

#201 Migratory Bird Inn


天国とはこんな所であればいいと切に思う。
寂寥感漂う静謐に満ち、澄爽たる空気に包まれ、肌寒い微風が地を撫でる。
雪を被る山に囲まれた緑溢れる大地。
空では鳥が囀り、地では牛がのどかな声を上げる。
安穏の内に流れる時間。
季候鳥旅游酒店は、そんな所に建っていた。

徳欽からタクシーで約10分、バスで巡った道を逆行した所に目的の宿は建っていた。
季候鳥旅游酒店――英名で『Migratory Bird Inn』。渡り鳥の宿。
そのネーミングセンスが気に入り、インターネットで予約していた。
予めレビューで見知ってはいたものの、周囲には何も無い。
他の宿も無ければ商店も食堂も無い。
車が無ければ何処にも行けない。
よくぞこんな所に宿を開こうと思ったものだ。
タクシーには明日の梅里雪山行きを予約しておいた。

静かな宿だった。
三階建ての小じんまりとした建物。
玄関には木枠にガラスを張った、建物の割に大きな観音開きの扉。
タクシーが着いたと言うのに誰一人出て来ないどころか、人の気配すら感じない。
照明もない薄暗い玄関に入り、大きな声で「ニーハオ」「請問」「ウェイ?」と呼んでみたものの、何の応答もない。
諦めてフロントのソファーにバックパックを降ろし、周囲を散策にでも出ようと扉に手を掛けたところで誰かが下りてきた。
 「誰?」
不愛想な若い女。
 「インターネットで予約していた者です。」
すると彼女は同じ敷地内の隣の建物に向かって大声で呼んだ。
間もなくして年配の女性が現れ、淡々とチェックインの手続きを済ませてくれた。
渡されたカギは201号室。

部屋に荷物を下ろして散策に出る。
眼下の集落に寺でもあるのか、東南アジアの寺院でよく耳にするガムランに似た音が周囲に響く。
何処に寺があるのだろうかと上から捜してみたが、まるで見当たらない。
宿に着いた時からやたらと牛の声が聞こえると思っていたが、牛は至る所に放牧され、みな銘々の好きな所で草を食んでいるのだった。
牛がこの地を統べているのか、道路に出ると牛が三頭、徒党を組んで道路を塞ぐように横並びに歩き、私は目を合わさぬよう申し訳無さげに肩を狭めて端を歩くしかなかった。
擦れ違い様にガムランの正体が分かった。
ガムランに似た音は、それぞれの牛の首に着けられた鈴の音なのだった。
音の高低が不揃いなため、その鈴の音は様々な音階に綴られた旋律のように聞こえたのだ。
ミャンマーのバガンで聞いた読経を彷彿させる。
地平線まで続く無数の仏塔の景色の中で流れては空へと抜けていく読経。
その旋律が心を遠くへ陶酔させる。

チョルテンの建ち並ぶ展望台から雪を被る山峰を望む。
切り立った崖に張り出した祠に無数のタルチョが張り巡らされている。
盆地と言うよりも山と山の裂け目に拓いたような徳欽の小さな町の全体像を見据える。
眼下の集落へと下りる途中で見上げると、山から山へと谷間を越えて、まるで送電線のようにとても長い一本のタルチョが張られていた。
ここに住む人の熱い信仰心が窺える。
集落の奥には2メートル近い赤いマニ車があり、老婆が二人で回していた。
一周回るごとに鈴がチリンと鳴る。
疑うこともなく、救いと来世を願ってマニ車にすがる愚鈍にして純粋な信仰心。
生ぬるい私の怠惰な信仰に少しく恥を覚える。

ホテルに戻り3階のバーに上がると、先刻の不愛想な女と若い男がいた。
姉弟なのだろうか。
 「ニーハオ。」
と言うと、若い男ははにかむような笑顔で「ニーハオ」と応じてくれた。
私はスマートフォンで会話を始めた。
 「明後日、香格里拉まで車をチャーターしたいんだけど、幾らぐらいするだろう?」
彼は知り合いのタクシーに電話をかけた。
 「500元かかりますよ。」
驚いた。
徳欽から香格里拉まで約160kmで500元。
なのにホテルまで乗ったタクシーは梅里雪山まで400元だと言った。
そのことを彼に話すと、高過ぎる、200〜250元が相場だと言う。
タクシーの運転手の名刺を見せると、彼は運転手に電話を掛け、興奮したように話して電話を切った。
 「これで大丈夫。彼にはキャンセルしておきました。明日はぼくの知っているタクシーを手配しておきます。」
と一件落着した。
しかしながら、手元の残金は1,600元。
明日の観光や車代、この先の宿や食事等を考えると心許ない。
 「日本円を両替したいんだけど、明日、徳欽の銀行に寄れるだろうか。」
彼は少し顔を曇らせた。
 「徳欽に外貨を扱う銀行は無いですよ。香格里拉まで行かないとありません。」
それは困った。
これから帰り道に銀行に寄る余裕などない。
 「幾ら?」
と訊かれ一万円札を見せると、彼は姉と相談し、パソコンで今日のレートを調べて財布から両替してくれた。
540元。
高くもない、妥当なレートだ。
彼の優しさに助けられた。
部屋に戻ろうとしたところで、彼に呼び止められた。
 「明日の日の出は7時18分です。明日、ここのテラスで一緒に日の出を見ませんか。」
このバーから屋上に出られるようだ。
起きられる自信は無かったが、興味をそそられた。

翌朝、6時に目が醒めた。
外はまだ暗い。
顔を洗ってから着替え、三階に上がってテラスに出た。
あの物腰の柔らかい男はまだ来ていない。
昨夜の内に雨が降っていたらしい、テラスの床が水に濡れている。
冷気を含む瑞々しい空気は甘いのだと知る。
辺りは濃い靄に包まれ、近くの山も霧で頂が隠されていた。
静かだ。
ようやく空が白ばみ始めニワトリが声を上げると、応じるように牛が鳴き、またガムランの音楽が始まる。
小鳥も空で囀り始めた。
四方を囲む山の頂から陽の光が大地を射す。
静かに、緩やかに、そして厳かに迎える朝。
この時間がいつまでも続けばいいと願わずにはいられなかった。


追記

梅里雪山まで行くと、結局タクシーからは400元を請求された。
途中の飛来寺までなら250元とのこと。
キャンセルした運転手に申し訳ないことをしてしまった。



scott_street63 at 17:20|PermalinkComments(0)TrackBack(0) | 中国