December 25, 2022

On the way back along Mekong.


旅の楽しみは計画を練っている時点で半分は消化しているのかもしれない。
漸く規制のない渡航が許されるようになると、浮き足立つように体が疼き始める。
滅多に公休以外に休まない自分だが、一日休暇を取って出かけることにした。
久しぶりのラオスへ―――と思ったら、発券直後に欠航の連絡が来た。
コロナ禍はまだ終わらない。
それならば、とシーズンオフの南の島をブッキングした。
ブティックエアラインと自称するバンコックエアウェイズでサムイ島へ。
シーズン中はダイビングやマリンスポーツで沸くリゾート地でありながら、10月〜1月はモンスーンの影響で天候不安定な季節とのこと。
時に酔狂と誹られることもあるが、私には誠に結構な季節でもある。
曇天あるいは雨天の下、本来は鮮やかに青いのであろう灰色の珊瑚礁を部屋から眺めつつ、だらりと無為に一日を過ごしたい。
飽きるまでベッドへダイビング。午睡の海へ潜る。
睡眠こそストレス解消。
罪深い自堕落な休日に想いを馳せるだけで、もう楽しい。
思わず顔が綻ぶ旅行前。当日が待ち遠しい。

旅行が解禁になったことで、さっそく次の長期休暇を調べてみた。
次は2024年〜2025年にかける年末・正月休みが長い。
12/28(土)〜1月5日(日)までの実に9日間の休みとなる。
その頃には中国も解禁になっているであろうから、また雲南省の雨崩村へのトレッキングに挑戦したい。
前回の私は本当に道を違えたのか、再度雨崩村から尼農村への峡谷の道を歩いて確かめたいのだが、それよりも、荒々しく流れるメコン川上流にまた会いたいと思うのだ。

あわや遭難かと民家に置かれたタクシーに救われた翌朝、意外にも体に疲労は残っていなかった。
夕食の質の低さからホテルで供される朝食を敬遠し、日本から持ってきた携行食糧で済ませてチェックアウトの手続きをしているところで、タクシーの運転手が約束通りに迎えに来た。
南宗峠越えに挑む前日に声を掛けてきた運転手。
普通なら山を越える道で香各里拉まで戻るところを、敢えてメコン川沿いの低地を走って、香格里拉より手前の塔城(ターチェン)まで送らせた。
交渉の際には難色を見せた運転手だったが、言い値の900元を出すと約束すると、言った本人が驚きを見せながら受けてくれたのだった。

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山を越えない分、道程は長い。
川沿いを延々6時間、昼食も摂らずに走り続けたのだが、途中にある見どころで停まってくれるサービス精神を持ち合わせているのには驚いた。

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メコン川と並走する道を駆る。
運転手と一言も交わすことなく、ずっと川面を見続けた。
何故これ程まで自分はメコンに恋い焦がれるのだろうか。
死後は是が非でもメコンに散骨を願う。
ここまで来るのは大変だろうから、ルアンパバーンで妥協しても構わない。
ワット・シェントンの船乗り場からパークウー洞窟へ船で向かうと、急に視界の拡がる場所がある。
そこで是非撒いてほしい。
メコンに溶けてしまいたいとまで想う。
しかし道は途中でメコンと別れを告げて、塔城へと向かうことになる。
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町に入ったものの、目的の宿が見つからない。
運転手は町の人間に訊ねたが、皆目分からない。
往来の真ん中で車を停めて、運転手は黙ってイライラとした雰囲気を醸し始めた。
咄嗟に閃いてVPNでGoogle Mapを試してみると、もう殆ど真近まで来ていたのだった。
その宿は棚田の高台の上で樹々に隠れるように建っていた。

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「松赞塔城山居(Songtsam Tacheng Shanju Hotel)」
景観を損なわない3階建て。外壁はシックな煉瓦で覆われていながら、内装は樹の温もりに包まれた造りがたまらない。
最終日だからと思って少し張り込んだのだった。
午後4時、チェックインを済ませると、流暢な英語を話す女性スタッフが言った。
 「アフタヌーンティーはいかがですか?」
突然の質問に驚いた。
アフタヌーンティー?
軽井沢のペンションでもあるまいに、まさかの雲南省でアフタヌーンティー。
 「幾らですか?」
私の質問に彼女は首を傾げた。
 「多少銭?」
中国語でもう一度訊ねてみたが、言語の問題ではないのだった。
 「宿泊のお客様のみのサービスです。」
一泊二食アフタヌーンティー付き。
洋菓子と紅茶でもてなされる正真正銘のアフタヌーンティー。
値が張るとは言え、アフタヌーンティーまでデフォルトで給仕する宿など欧州でも見たことがない。
この系列のホテルは中国内に他にもあるらしい。
次来る時には是非もう一度抑えたい。
寒くて辛い登山よりも、むしろ宿泊を主題に置いても良いかもしれない。
もう今から楽しみでしかない。

客室内




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May 05, 2021

Recuerdo de viaje por Yu-Pong-Cheon. Aug/2015 #3


暇潰し写真整理2
Shangri-La


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シャングリラ〜徳欽行きバス



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ナパ海



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ナパ海



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宿泊したゲストハウス Ting Yu Xuan Hostel



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Ting Yu Xuan Hostel は松茸鍋屋の二階


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室内



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古城路地



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古城路地



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古城路地



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ゲストハウス案内



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干し松茸


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路地に無造作に置かれた干し松茸



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久しぶりの美味しいご飯(チキンカレー)



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チョルテンと旗めくタルチョ



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広場 金色の塔は巨大マニ車



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巨大マニ車の阿弥陀如来レリーフ



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巨大マニ車を回す初対面の男ら



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金沙江大湾曲



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香格里拉(シャングリラ)バス時刻表 今後の旅の資料に



#雲南省 #シャングリラ #香格里拉



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May 03, 2021

Recuerdo de viaje por Yu-Pong-Cheon. Aug/2015 #2


暇潰し写真整理
#201Migratory Bird Inn
This maybe my final destination.


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リンアルに誘われ日の出を待つ。



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雨季に日の出を期待するものではない。



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送電線のようなタルチョ(1)



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送電線のようなタルチョ(2)



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Fin.



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赤いマニ車を回す婦人



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雲の上を行く



Mekon river
メコン川上流



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明永氷河(1)



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明永氷河(2)晴れていればカワクボ(太子峰)の頂まで見える



010
明永氷河(3)



#雲南省 #香格里拉 #シャングリラ #梅里雪山 #雨崩村


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May 02, 2021

Recuerdo de viaje por Yu-Pong-Cheon Aug/2015 #1


陣中御見舞
2015年8月雲南省徳欽への旅写真
#201Migratory Bird Inn


Migratory Bird Inn 01
Migratory Bird Inn看板

Migratory Bird Inn 02
Migratory Bird Inn外観



Migratory Bird Inn 07
Migratory Bird Inn玄関

Migratory Bird Inn 03
Migratory Bird Inn食堂の一角



Migratory Bird Inn 05
Migratory Bird Inn食堂

Migratory Bird Inn 04
Migratory Bird Inn内側



Migratory Bird Inn 06
Migratory Bird Inn 3Fバー

View from Migratory Bird Inn
Migratory Bird Inn眺望



Migratory Bird Inn 08
Migratory Bird Inn朝食

Mgratory Bird Inn 09
Migratory Bird Innリンアルと(父親撮影)



#雲南省 #雨崩村 #香格里拉 #シャングリラ #梅里雪山

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August 01, 2020

Pomelo Guesthouse.


IMG_0722小さな集落に入って程なく、目的の宿「ポメロゲストハウス」に到着した。
素朴な看板に導かれて数歩歩いたところで、小さな門扉の向こうにウッドデッキのテラスが広がっていた。
すぐ手前に西洋人のカップルが向かい合って座っていた。
 「Hi.」
と声を掛けられ、
 「サバイディー。チェックインしたいんだけど、何処に行けばいい?」
と尋ねたところ、
 「ようこそ。ここでいいわよ。」
と女性が答えた。
 「え、オーナーは何処に?」
 「彼女さ。ぼくはスタッフさ、何もやらないけどね。」
と男が言ったが、冗談なのか女が笑った。
テラスはメコン川に向かって迫り出すように造られていた。
屋根は無く、夜気を含んだ心地よい風が昼間の暑さを忘れさせる。
ウッドデッキの中央には下から大きな樹が伸びていて、大きな緑の実を成していた。
なるほど、ポメロゲストハウス。
樹に成っているのは正しくポメロだった。
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ポメロとは日本で言うところのザボンに該当するだろうか、とにかく大きな柑橘類の果物だ。
バンコクではよく薄皮を剥いた実をプラスチックの食品トレイに並べて売っている。
果実を構成する一粒々々がとにかく大きく、しっかりと固いので食べ応えがある。
そして頬張った時に拡がる爽やかな、しかし甘過ぎない風味が私を虜にさせた。
父に連れられ初めてタイを訪れた際にその果実を紹介され、それ以来ずっと私の大好物となっている。
それだけにこの宿が気になっていたのだった。
 「あら、日本人?あちらの方も日本人よ。」
テラスのソファーで寝転びながら本を読んでいる男がいた。
こちらを向く訳も無く、恐らくは人里離れた所を好んでここまで来たのだろう。
こんな辺境まで来て日本人と会う不運を呪っているに違いない。 
同国出身の客に声を掛けない私に、彼女は不思議に思ったらしい、怪訝な間が空いた。
 「貴方がたは何処から?」
 「スイスよ。」
 「なんでまたこんな所に宿を?」
 「あら、多いのよ。あっちの島でも欧州人が開いている宿いくつか知ってるわ。」
北部ラオスでは中華系の宿をいくつも見たが、陽を浴びられるこちらでは欧州人の人気が高いということだろうか。
もっとも北部に中華系が多いのは、中国からタイへ抜ける交通の要衝としての理由だろうが。

 「部屋に案内するわ。」
と女主人から電気ランタンを渡され、テラスから外に出た。
民家の窓から灯りが漏れているものの、周囲はほぼ闇に近い。
ランタンで足元を照らしながら慎重に歩く。
2〜30メートルぐらいだろうか、思っていたより距離がある。
私の部屋は一軒のバンガローだった。
二部屋から成るスイートで、リビングと寝室、浴室と連なった手洗い。
浴室の床板には敢えて隙間を空けていて、水はそのまま地面に落ちる。
テラスには小さなテーブルと椅子が二脚。
カンボジアへ続くメコン川の水平線を眺望できる。
こんな部屋で一泊しか出来ないのはなんと惜しいことか。
 「ところで、明日の帰り道にコーンパペンの滝を見たいんだけど。」
 「コーンパペンはちょっと遠いわね。朝7時にここを出ることになるけど、それで良ければタクシーと船を手配しておくわ。」
 「幾らぐらいだろう。」
 「調べておくわ。」
 「後で夕食を食べに行くから、その時に教えてもらえたら。」
そう行って彼女が去った後、堪らずすぐに服を脱いで、シャワーで昼間の汗を洗い流した。
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夜、財布をリビングの机の上に置いたまま床に就いた。
日本に持ち帰るべくバンコクで引き出した会社の金と、クレジットカードを含む日本円用の財布はリュックの底に入れ、寝室に持ち込んだ。
隣のバンガローにも客がいるのか、遅くまで2〜3人の男の話し声が聞こえていた。
気味が悪く、寝室の照明をずっと点けたまま眠りに就いた。

朝7時、リュックを持って母屋へ向かおうと外に出て初めて気付いた。
隣にバンガローなど無い。
私の部屋は全くの一軒家だったのだ。
昨夜の男の声は何処から聞こえていたのだろう。
すぐに戻ってリビングに置いた筈の財布を探したが、忽然と無くなっていた。
母屋へ行き、女主人に理由を話し、日本円を入れていた別の財布から宿泊代を出そうと思って1万円札を出した。
 「日本円で払わせてもらえないかな。」
 「ごめんなさい、日本円は扱っていないの。これが幾らかも分からないの。」
と言われても、タイバーツは幾らも残っていない。
一度ナーカサンに戻って、両替商に日本円を替えられるか駄目元で訊いてみるか。
リュックの中の会社の金を調べると、バンコクで両替した大量の日本円と半端なタイバーツがあった。
パクセーに帰るには何とか足りる。
流用した分はバンコクで自分の金から補填すれば済む。
しかし宿泊代は…と肩を落としてシクロを待っている間に、男が女主人を呼んでパソコンを見せた。
 「えっ!」
と彼女は声を上げ、慌ててレジを引出し金を数え始めた。
 「両替レートで日本円を調べたわ。幾らお返しすればいいかしら。」
と私は逆に訊かれる立場となった。
しかし財布を失ったのは明らかに自分の過失だ。
盗られたという証拠が無い以上、自分が紛失したことに違いはない。
と言ってそのまま受け取ってもらうようにお願いすると、彼女は何度も「ごめんなさい」と謝った。
 「Don't say sorry. This is my mistake.」
 「But...it's so sorry」
 「No, please don't say...」
と押し問答が続いたが、最終的に男が彼女の背後から肩にそっと手を遣って、
 「Thank you so much.」
と柔和な笑顔で受け取り解決した。
彼女らを逆に恐縮させてしまったことで申し訳ない気持ちを残したまま、迎えに来たシクロで宿を後にした。
また必ず来よう。今度は3日は泊まるつもりで是非来たい。
そう思わせる、素晴らしい宿だった。

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余談:
冷房付きのバスでパクセーに帰って驚いた。
ターミナルでも何でもない住宅地で、バスは突如終点となった。
「バスターミナルは幾つもある」とはこのことだったのかと、漸く納得した。

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May 24, 2020

4,000 Islands.


メコン川は中国青海省を源流に、ラオスとミャンマー、タイとラオスの国境を隔ちながら、カンボジアを経てベトナムで南シナ海に流れる約4,000kmに及ぶ大河だ。
ラオスとカンボジアの国境をも成し、そこは世界一の幅を誇る滝となっているのだが、滝の手前では川幅が14kmにまで膨れ上がる。
その川幅の中には4千以上の大小様々な島が点在し、それらの島を纏めて「シーパンドン(4千島)」と呼ばれる。
大きい島には人が住んでいるのだが、今回は4千の島の中でも最南端のコーン島を目指す。

Mile Stoneパクセーから144km。途中2度の休憩を挟みながら終点ナーカサンに着いた時には既に午後5時を回っていた。
バスターミナルと呼ばれる広場から傾いた夕陽に向かって真っ直ぐ歩くと、茶色く濁った湖が水平線まで眼前に拡がった。
否、湖ではなく川なのか。
河口でもないのに島以外の対岸が見えない程に広い。


メコンに沈む夕陽

川端に渡し舟の小屋があった。
窓からぶら下げられた時刻表では最終便は5時半。間に合った。
 「コーン島まで行きたい。」
と小屋にいた男に尋ねると、
 「もう終わったよ。」
と如何にも面倒臭そうにこの新しい客をあしらった。
 「最終は5時半て書いてあるじゃないか。」
 「・・・一人?85,000kipだ。」
 「タイバーツで300でいいか?」
自国の通貨を信用しないラオスでは外貨での支払いが通用する。
タイバーツか米ドルに限られるようだが、最近では人民元も扱われているようだ。
ナーカサンに着いて両替所を見てみたが、日本円の記載は無かった。
男は300バーツを受け取ると、「ここで待ってな」と言ってチケット代わりの領収書を私に渡した。
河岸を見下ろすと船乗りの男たちが談笑している。
ビアラオの黄色い通し函が流通せずに山積している。
皆早く仕事を退けて一杯やりたいのだろうが、誰も川岸から上がって来ない。
かと言って男が川岸の船乗りを呼びに下りる気配もない。
ビアラオの通い函終業時刻が刻々と迫っている。
 「どれだけ待てばいいんだ。」
痺れを切らして質問すると、舌打ち交じりに漸く重い腰を上げた。
男は窓から川岸を見遣り、
 「下に行ってチケットを見せな。」
と、さも煩わしそうに言った。
結局彼は案内するつもりなど無かったのだ。
時間切れになることを望んでいたのだろうか。
岸に下りて船乗りに話すと、意外にもすんなりと乗せてくれた。

大きなエンジン音を伴って広い広い川面を進む。
余りの広さに下っているのか上っているのか、どちらが東で南なのやら判別がつかなくなる。
右手の島に集落が見える。
左手には人が一人立つのがやっとな小島が浮かぶ。
藪だけの島、誰も住まない島・・・大小様々な島が浮かぶ中を、船頭は着実に舵を操った。
大きな島に錆びた鉄橋が川に向かって寸断された形で建っていた。
ガイドブックでも見たが、大戦中に仏国軍がカンボジアまで鉄道を通そうと計画したものの、滝の激しさに断念したものらしい。
ラオスには戦争の痕跡を未だ残している所が多いが、ベトナム戦争の戦地でもあったことは余り知られていない。
船

約30分の船旅を経てコーン島に上陸する。
もう空が薄暗い。
コーン島は四千の島々の中で最も南に位置し、カンボジアとの国境に最も近い。
船着場はコーン島の最北端に位置していたが、今回予約していたゲストハウスは最南端に建っている。
川岸から階段を上った所の食堂でバイクタクシーを頼んだ。
 「すみません。ポメロゲストハウスに行きたいんですけど。」
食堂に座っていた婦人と小学生ぐらいの娘が私に目を向けた。
 「今からかい?」
婦人が驚きなのか迷惑なのか、どちらとも取れない表情を見せた。
 「すみません、今日予約してるんです。」
 「しょうがないね、連れてってやりな。」
と彼女は娘に言うと、娘は喜んで表に停めてあったシクロのバイクに跨った。
まさかこの10歳程度の女の子の運転で行くのか?
 「いつもの所だよ。」
とでも言ったのか、婦人は娘の背に言葉を投げた。
シクロを運転する娘
よく揺れる未舗装の道を走る。
宿は北部に多いらしい、欧米人の集まる洋風の食事を出す食堂が多く(と言っても3〜4軒)固まっていた。
ゲストハウス街を行き過ぎて程なく、娘は一軒の店の前でシクロを停め、店の中へ姿を消した。
居酒屋だろうか、時折り大きな笑い声が外にまで響く。
間も無くして一人の男が少女に連れられて出てくると、私を一瞥してバイクに跨った。
 「どこ行くんだって?」
酒臭い息が鼻を衝いた。
 「ポメロゲストハウス。」
 「遠いぞ?」
質問なのか単なるメッセージだったのか、男は私の回答を待つこともなくアクセルを回した。

街灯の無い真っ暗な畦道を、男はヘッドライトと月明りだけを頼りに踏み外すこともなく走った。
言うだけあって確かに遠い。大きな島だ。
北部と南部の間には民家など無く、ただただ畑とジャングルが続く。
最南端の島の最南端に胸が躍る。
もし目に見えるものであれば国境のラインが見えるかもしれない。
月夜の下、鬱蒼と茂る樹々のシルエットが風に流され揺れている。
シクロはまだ止まらない。

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May 02, 2020

On the way to Nakasan.


今年こそはと計画していたインド旅行は、またも潰えた。
豪華客船ダイヤモンド・プリンセス号の帰港以来急速に全国に拡散された病疫は、見る間に世界に広がり人々を恐怖に陥れ、二十万を超える生命を奪いながら、まだ飽き足りないように今も猛威を奮っている。
それまで未曽有の海外旅行ブームによるインバウンドで沸いていた商店街は今や息を潜めるようにシャッターを降ろし、外国人ツアーで日本を案内していた旅行会社は倒産へと追いやられ、国内に収まらず世界が経済恐慌へと導かれて行く。
「感染国」のレッテルを貼られた日本人は国土から出ることも出来ず、ゴールデンウィークと呼ばれる5月の連続休日は外出自粛の暗い日々へと変貌することだろう。
今年の休暇は大人しく家で過ごしながら、旅の空を懐かしむことにしようと思う。

ソンテウ

 「ちょっとちょっとちょっと、そこの兄さん、待っとくれよ。」
トラックバスの荷台に乗ろうと手すりに手を掛けた私に向かって、籠を抱えた婦人が大声で駆け寄ってきた。
 「パン買わないかい、パン。」
ラオスのパンと言えばフランスパンのバゲットが定番だと思っていたが、婦人が抱えている籠の中には、日本でも見かけるようなメロンパンやクリームパンなどの菓子パンが、それぞれ包装されて並んでいた。
 「すぐそこの工房で焼いてるのよ。今朝の出来立てだよ。」
とでも言っているのだろう、婦人は後方を指差しながらラオ語で捲し立てた。
 「要らない。」
と知っているタイ語で返すと、
 「そんなこと言わないで。ナーカサンまで行くんでしょ。途中でお腹空くわよ。一つどう?」
ラオ語は解らないのだが、婦人が余りに押してくるものだから、凡そ私の理解で間違えてはいないだろう。
婦人の勢いに気圧され、結局クリームを挟んだ四角いパンをひとつ買った。
手にすると思いのほか重い。
食べきれるだろうかと不安に思いながら、婦人は漸く私を解放してくれた。

荷台には女性ばかり居た。
皆家庭を持っているであろう歳の頃で、一人の女性は幼い姉妹と座っていた。
買い出しの帰りなのだろうか、その割には車内に大きな荷物は余り見えない。
姉妹の写真を撮らせてもらおうと母親に尋ねてみた。
 「可愛いですね。写真を撮ってもいいですか。」
女性は驚いたように、「え、ええ、どうぞ。」と承諾してくれたものの、写真に撮った姉妹の表情は強張っていた。
若い頃はよく子供の写真を撮ったものだが、もう四十半ばともなると、ただ気持ち悪い中年男性にしか見えないのかもしれない。
悲しい現実だ。
姉妹

道はなだらかな一直線だった。
緩い勾配で僅かに下っているようにも感じる。
アスファルトではないが、凹凸の少ないコンクリート舗装で快適と言えよう。
ただ蒸し暑さだけは耐え難かった。
座っているだけでも服の下で汗が滲む。
乗客も皆静かに耐えているように窺える。
姉妹は母親の腿に頭を乗せて眠っていた。

途中、車がスピードを落として停止した。
皆はっとして目を覚ます。
後方から一人の男が走って車を追い駆けていた。
新しい乗客だった。
来客の刺激に目を覚ました乗客は、少しの間持っていた菓子や果物を食べたりしたが、すぐにまた茹だるような暑さに静まり返った。
道はひたすら真っ直ぐに下っている。
途中、意外にも新しい、ラオスという国には似つかわしくない奇麗なドライブインがあった。
ただ貧しいだけと思えていたこの国も発展しているのだろう。
しかしバスは停まることもなく通過した。

突然大きな声で数人の女性が追い駆けて来た。
それぞれ手に籠を提げている。
鶏を串に挟んでタレを浸けて焼いたガイヤーンだった。
運転手は車を停め、運転席から手を伸ばしていた。
乗客も二人、買っていた。
ちょうど小腹が空いた頃だったから魅惑的に見えたが、自分には先ほど買った菓子パンがあった。
折角なので千切って食べた。

再び蒸し暑い中を駆る。
恐らくコンクリートからの照り返しも影響しているのだろう、空は憎い程の快晴で、雲に隠れることなく太陽が輝いている。
じわじわと沁み出た汗が顔面を流れ落ちる。
皆ぐったりと疲れ切っているように見えるのは、きっと勘違いではない。
シーパンドンを目指して走っているはずなのだが、メコン川は遠く離れているらしい、影も形も見えてこない。
もう結構な距離を走っているように思えるのは疲労の所為か。

車は再び停車した。
誰かが追い駆けて来る訳でもない。
前を見ると、幌の隙間から運転手が手を伸ばしているのが見える。
商店でジュースを買っているのだった。
それを見た乗客は皆、我も我もと買い求めた。
私の席からは商店の入り口は遠く、店員が店内に引っ込みそうになったところで、「コーラほしい」と正しいかどうか分からないタイ語で大声で呼びかけると、女性らが店員に「この人にもコーラあげて!」と店員を呼んでくれた。
氷水に浸けていたのだろうペットボトルは冷たく濡れていて、額や首筋に当ててから、キャップを開けた。
よく冷えたコーラが勢いよく喉を潤し、熱い身体を一気に癒す。
テレビCMでも観ているかのように車内に晴れやかな笑顔が広がり、偶然乗り合わせた乗客どうしに会話が生まれた。
姉妹もファンタで目を醒まし、眩い笑顔を私に向けてくれた。
車が再び走り出す。
なだらかな道は真っ直ぐに南へ向けて続いた。

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March 08, 2020

Beyod the Border.


計画していたインド旅行は、たった一通のEメールで儚く潰えた。
理由も何も無く、「貴方のフライトはキャンセルされました」と航空会社から唐突に届いたのだった。
形式的にバンコク駐在員事務所の所長になって以来、毎月末〜毎月初に訪泰している。
正月であれゴールデンウィークであれ、会計処理のために訪泰する。
天皇陛下の退位も即位も関係なく、十連休の恩恵に与ることもない。
ならばせめてと、バンコク発インド・バラナシまで1泊3日(機内1泊)の強行軍を計画した次第だったのだが、ビザを取って間も無く非情な通知が届いたのだった。
インドに呼ばれなかったということだろうか。
帰国の便を早めようと旅行社に問い合わせたものの既に全便満席。
十連休が確定した途端に予約が殺到したらしい。
それならば―――と、兼ねてから胸に温めていた計画を突如実行するに至った次第だった。


突き出した紫色の庇が空を刺す。
眼前に建つ国境管理局はタイの国花である蘭を形容しているのであろう屋根を一面紫に染め上げ、庇の一角だけを空に向けて突き立てている。
タイ東端の国境の町・チョンメック。
徒歩で国境を越え、ラオス最南端の島・シーパンドンを目指す。
屋根の下では4メートルはあろうかという巨大なワチラロンコン新国王の肖像画が出国する者を見下ろしている。

1570959593[1]

五月初旬のタイは予想以上に蒸し暑かった。
日本国内では平成から令和へと移る空前の十連休を迎えているにも拘らず、国外では何ら恩恵に与ることもない。
毎月末月初に渡泰せねばならない己の使命を呪いつつ、腹立ちまぎれに2泊3日の旅に出ようと、仕事を終えた晩の便で空を飛んだ。
タイ東部の主要都市・ウボンラチャタニで一晩を過ごし、翌朝8時半の国際バスでラオスへ渡る―――と思っていたのだが、国際バスは出発の30分前で既に満員だった。
仕方なく国境行きのトラックバスに乗り、今、国境の前に立つ。
こうして国境に立つまでずっと、メコン川こそが二国を隔つ国境を成していると思い込んでいた。
チョンメックだけが唯一徒歩で国境を越えられるポイントであるとは知ってはいたが、歩いて橋を渡るのか、はたまたトンネルを越えるという情報もあり、まさか大河の底を掘ったわけでもあるまいにと半信半疑だったのだが、何のことはない、必ずしもメコン川が国境であるとは限らないのだと、こうして国境に立って初めて知った。
出国手続きを済ませると、地下に潜る階段があった。
地下に掘られた10メートル程度の通路を歩いて地上に出ると、そこはもうラオス。

ラオス側出入国管理局1570959630[1]








入国管理局でアライバルビザの申請用紙に四苦八苦している欧米人を傍目に、ビザ不要の日本人としてスムーズに入国手続きを済ませると、すぐにタクシー運転手が声を掛けて来た。
意外にも声を掛けて来たのはただの一人で、大声で客を取り合う気配などまるで無い。
恐らくは国際バスを逃すような間抜けはそうそう居ないということなのであろう。
 「パクセー?」
 「イエス、パクセー。」
ラオス最南端を目指す前に、まずはラオス南部の都市・パクセーを目指す。
 「100バーツ、OK?」
 「バスターミナルまで行きたいんだ。」
小柄な初老の浅黒い肌の男は顔をしかめた。
 「バスターミナルは一杯ある。何処のバスターミナルだい?」
 「シーパンドンへ行きたいんだ。」
 「シーパンドンまでなら1000バーツ。」
シーパンドン行きのバスが出るターミナルと言いたいのだが、男の英語も覚束ないため、どう言って説明すれば良いのか思案に暮れる。
男も話にならないと諦めたのか、他の客が来ないかと視線を私から外した。
しばらく沈黙が続き、私も諦め他の運転手を探そうと男から遠ざかっても、彼は追いすがる素振りも見せなかった。
延々と続くアスファルト舗装の道を少しだけ歩いたものの、とても歩いて行ける距離では無いと困っていたところ、スクーターに乗った男が声をかけてくれた。
 「パクセー?」
 「イエス、パクセー。何処でもいいからバスターミナルまで。」
とりあえずバスターミナルに行けば何とかなるだろうと考えた次第だった。
 「OK。300バーツ、ユーOK?」
3倍の値段に驚いたものの、もはや彼にこの身を預ける以外の道は無い。致し方なくOKと答えた。
 「おれのヘルメットは?」
と訊いたところ案の定「ノープロブレム」という回答だったが、彼はしっかりフルフェイスのヘルメットを被っているのだった。

延々と続く完全アスファルト舗装の道を駆る。
排気量100cc程度のスクーターの目盛りは常に時速60km前後で維持している。
道の両側には耕作地でも牧草地でもない、手付かずの緑豊かな大地が広がる。
恐らくはグリーンベルトのようなものなのか、国境は越えているものの、何処の国にも属さない土地という範疇なのかもしれない。
途中で料金所のような大きなゲートがあり、写真を撮ろうと思って「ストップ、ストップ」と声を掛けたのたが、男はまるで止まらなかった。
聞こえなかったのか?
メコン川を渡る橋に来た。私は男の肩を叩いて、再び「ストップ、ストップ」と言ってみると、さすがに「オーケー」と応じてくれたが、やはり止まることはなかった。
何のオーケーだったのだろうか?
まるで不可解な旅が続き、出発してから約45分かけて漸く終点に着いた。
国境から実に45km。
乗合ではないマンツーマンタクシーなのだから、300バーツでも全く高くないことを知った。

男はバスターミナルがある市場で私を下ろし、サイドカーを付けたシクロの運転手に私を紹介した。
 「兄ちゃん、シーパンドンへ行きたいんだって?100バーツでどうだい?」
驚いた。
国境から300バーツだというのに、最南端までたったの100バーツで行けるのか?
外国人価格だったのか、もしくは思っていたほど遠くないのか?
 「本当に100バーツでシーパンドンまで行ってくれるのか?」
半信半疑で聞き返したが、
 「イエス、100バーツ。ユーOK?」
快くオーケー、プリーズとサイドカーに乗り込んだ。
男が走った先は果たして別のバスターミナルだった。
複数のバスやトラックバスが停まっている。
男は一台のトラックバスを指して言った。
 「このバスがシーパンドン行きだってよ。」
決して嘘つきではないのだが、南ラオス人とのコミュニケーションは難しいと知る。
南北に長いラオス。
初めて訪れた南部ラオスに地域性の違いを思い知った。

シクロ


scott_street63 at 00:04|PermalinkComments(0)

March 06, 2018

Run away from nightfall.


五年目の結婚記念日は妻と二人でイタリア料理を食べに行った。
昭和六年に建てられた銀行跡を利用した三階建ての料理屋であり、建物は国の有形文化財として登録されている。
かつて金庫であった場所はワインセラーとなり、古い大時計は11時55分を指したまま止まっている。
料理の味は上の下といったところか、グラッチェグラッチェと言い寄る胡散臭いイタリア人ウェイターが些か気に障る。
結婚して五年だが、互いに特別な存在として意識したのは中学生の時だから、大方30年の付き合いになる。
14歳から現在まで、思えば遠くに来たものだと今の年齢を指折り数える。
もう一生の半分は生きたろうか。
人生のゴールは死だ。
しかし死の前に老いがある。
やがて身体の自由が利かなくなる時が来る。
不器用に四肢を動かし互助しながら、妻に看取られて死ぬのだろうか。
あるいは先立たれ、液状化した腐乱死体となって付近の住民に異臭を訴えられて発見されるのだろうか。
これを書いている今という一分一秒でさえ肉体は老化の一途を歩み続け、死への行進を止めることはない。
否、老いや死は今にも呑み込まんとしてこちらに向かって来るのだと、この年齢になって思い知る。
時間の流れは年齢を重ねる毎に加速する。
残る半生は転がり落ちる様なものかもしれない。
追い付かれてはいけない。
焦らずにはいられない。
毎日をクエストし、過去を清算しながら、背後から迫り来るその時に追い付かれまいと逃走を続ける。
たとえいずれ迎える死であろうと、生き切ってこそ勝利。
夕闇に追われ、逃げるように崖っ淵を歩いたあの日を思い出す。

 「え、今日帰るんですか。」
山を下りて宿にチェックインした彼は、私の宿まで付き合おうと申し出て驚いた。
彼は雨崩村に泊まって、日本の登山隊がベースキャンプを置いた跡地や、チベット人の聖地でもある神瀑と呼ばれる滝にも行くつもりらしい。
 「商社勤めは休みが短いからね。」
連休の一日くらいは妻と過ごしたいと考えていた私は、旅行期間を敢えて短く取っていたのだった。この日の内に隣村である尼農村を経由して飛来寺現景台前の宿に戻る。
 「尼農村って、そこの山の真裏ぐらいですよね。山沿いに歩いたら結構な距離ですし、今晩泊まって早朝帰るとかしてもいいんじゃないですか?」
日本でダウンロードしていた簡易な地図を見た限りでは、道は長いものの山を越えない分平坦な道が続いているようだ。
3時間も歩けば夕方には着けるだろうと考えていた。
雨崩村から歩いて尼農村まで行けばタクシーを掴まえ易いとの記事を読んだことがある。
時刻は午後3時半。暗くなるまでには十分な時間がある。
私は彼の親切な提案に謝して、手を振った。

四方を山に囲まれた雨崩村は静かな村だった。
人の気配があまり感じられない。
静謐と言うよりは寂莫と言うべきか。
山と山の合間から白く麗しい神女峰が見守るように聳え立つ。
神女峰を仰ぐように一体のチョルテンが広場の真ん中にぽつりと立っている。
そんな光景を傍目に眺めながら森に入る。
深い森を抜け、やがて木々が疎らになった林を抜けると、耕作地が広がっていた。
目的の山に沿って川が流れ、川に沿って畑が広がり、畑に沿って道が続く。
取り敢えず山の端を目指してひたすら歩けば良い。
愚かな私は山の端まで行けばすぐ裏側だと安直に考えていたのだった。

曇天の下、延々続く畦道を黙々と歩く。
「山の端」というアバウトで巨大な目的地は、歩けども歩けども近付いている気がしない。
中間地点である「山の端」までで3時間はかかるのではないかと、己の見積りの甘さを思い知る。
畑地に人がいたので訊いてみた。
 「尼農村は遠いですか。」
 「真遠。(本当に遠い)」
どれぐらい遠いのか詳しく尋ねたいが、語彙力に限界があった。
スマートフォンで翻訳アプリを使いたいが、もしもの時にはこの携帯電話が命綱となりかねない。
もやはカメラのフィルムは使い果たしていたが、バッテリーの消耗を危惧して写真を撮ることは諦めた。
5時半頃、欧米人カップルが進行方向から歩いて来て「やあ」と声を掛けてきた。
 「雨崩村まで何時間ぐらい?」
 「約2時間。」
 「マイガッ。」
と女が悲嘆の声を上げた。
彼女の表情には相当な疲れが浮かんでいるが、男は微笑みを絶やさなかった。
 「尼農村までは何kmぐらい?」
と私が訊くと、18kmとのことだった。
18km―――時速6kmで歩き続けることが出来れば3時間の道程。
雨崩村から3時間との見積もりが早くも崩れ去った訳だ。
私は歩を早めた。

第一目的地である山の端を越えると緩やかな上り坂となった。
山の斜面に沿って「尼農村歓迎您」と書かれた幟が数本立っていたが、とても山道が終わる気配は見えない。
上り坂の天辺に宿屋があった。
『尼農村秘境』と看板を掲げている。
 「どうだい兄ちゃん、泊まってかない?」
とでも言っているのだろう、中年女性が料金表を見せて来た。
恐らくは私のように時間の見積もりを誤った旅人が泊まったりするのだろうか。
私は衛生面が気になって通り過ぎた。
時刻は6時半。空はまだ明るい。
広大な中国は統べからく北京時間に統一されているため、緯度で計ると実際にはまだ5時頃なのかもしれない。

坂を下り、また森を抜けると川原に出た。
道を阻む巨岩群を足と手で登り、歩き難い岩場に足を取られながらどうにか前進を続ける。
気を抜けば足を滑らせ岩の間に身体を落としてしまいかねない。
慎重に足を運ぶ。
ようやく抜けると橋を伝って川を渡る。
橋を渡ると、川から水を取る用水路が流れていた。
村が近い証拠だ。
人の住む気配が近付いたことに励まされながら歩き始めて間もなく、先刻まで傍を流れていた川は大きな轟音を立てて視界の外へ落ちていた。
気付くと道は断崖絶壁の上を行く道となっている。
谷を挟んで遠くを走る車道を見ると、自分がどれほど高い断崖に立っているのか歴然となり、戦慄が走った。
落下防止の柵などある筈もない。
それでも用水路に沿って歩けば村に着くことは間違いない。
徐々に紫色に染まり行く空の下、岩肌に沿って心許ない細道を歩く。
時折り梅里雪山から強い風が吹き下りては体を屈めて歩を止めた。
この用水路を辿ってさえ行けば…と信じて歩くものの、1時間経ってもまだ村は見えない。
午後7時半、さすがに日は落ち、濃紺の空の下をマグライトで足元を照らしながら歩いた。
半ば泣きべそを掻きそうな心細さに、自棄糞に大声を出して気持ちを誤魔化す。
村に下りた時には既に真っ暗になり、午後8時半近くになっていた。
私はタクシーを庭先に停めている民家に救助を求め、這う這うの体でどうにか飛来寺の宿に帰還を果たすことが出来た。
その村が尼農村だったのか、救助を求めた車が本当にタクシーだったのか、実のところ定かではない。
運転手には謝々、謝々と繰り返し、100元紙幣を手渡した。
部屋に戻り、ひと息ついてSNS通話で妻に遭難しかけた旨を伝えると、大層叱られてしまった。

我、山に向かいて目を仰ぐ、我が助けは何処から来たるや―――
神と運転手に感謝しつつ、安寧の内に寝床に就いた。



後日談: 中国の旅行会社Ara Chinaにも雨崩村のツアーがあった。
     雨崩村から尼農村までのトレッキングは7時間とのことだった。
     己の無謀さを思い知った。



雨崩村地図
#雨崩村 地図


scott_street63 at 01:45|PermalinkComments(0)

November 26, 2017

Trek to Yu-Pong-Cheon.


朝、靴紐をフックに掛けながら足首まで力強く縛り上げると、俄然意欲が湧き上がる。
窓から見える空は藍のように深く青い。
日本から持って来た携行食品で朝食を済ませてロビー兼食堂に下りると、乗合タクシーの運転手がちょうど迎えに来たところだった。
南宗峠を越えて雨崩村(ユーポンチョン)へのトレッキングに挑む。

我々を乗せた軽ワゴン車の乗合いタクシーは、青い空に浮かぶ白い稜線を眺めながら滑走するようにメコンに向かって谷を降下していく。
3,600メートルの展望台から一気に2,100メートルの谷底へ。
最近になって判ったのだが、一昨年私が訪れたのは梅里雪山の登山口ではなく、明永氷河へのハイキングコースなのだった。
メコンを渡り右へ行くとその明永氷河への道に進むが、今回は左に折れてメコン川に沿って走る。
西当村と書かれた民家の間を縫って坂道を上った所に今回の登山口はあった。
登山口にはロバが繋がれて客を待っている。
麓から登山道の途中に設けられた駅までロバに乗って登れるらしい。
途中の駅でロバを乗り継げば、我が足で歩かずとも登頂することが出来る。
同じ車に乗り合わせた若者らはロバに乗ろうと御者と交渉し始めたようだが、私は構わず山道に踏み出した。

友人と談笑しながら登山を愉しむ幾つもの若者のパーティに囲まれながら、一人黙々と歩く。
毎日事務所で一日を過ごす四十を越えた身体には中々辛い。
前回の教訓を踏まえ、今回の旅に向けてジョギングシューズを買っては市内を走ったり、登山靴を買っては山を登ったりしてある程度身体を慣らしたつもりではいたが、この山の頂上は標高3,780メートル。
大阪最高峰の金剛山は1,200メートル程でしかない。
金剛山で慣らした身としては、歩けども歩けども気が遠くなる程に上り坂が続く。
途中、林道の合間からメコンが見えた。
次にメコンを見るのは雨崩村を越えた帰り道になるだろう。
ここで暫しの別れを告げて、再び黙々と歩き出す。
息を荒げながら、とにかく足を前に出すことだけに集中する。
巡礼とはこの様なものなのかも知れない。
スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼を思い浮かべる。
フランスからピレネー山脈を越えてスペインの北西端の聖地まで、果てしない距離を黙々と歩き続ける。
雑念すら浮かばぬ程に身体を酷使しながら何日もかけて聖地への到達を目指す。
北京までの機内誌で特集されていたのだが、それによると「スペインに愛された偉大な画家いわく、巡礼の目的は聖地への到達ではない、巡礼すること自体が目的なのだ」―――つまりたとえ途中で頓挫を余儀なくされたとしても、既に目的は果たしているのだ。
そう思うと、頂上まで登らず諦めて下山しようかと心の迷いが燻り始める程に辛い。
 「ニーハオ。」
山腹にある牧場を傍目に歩いていると、不意に話し掛けられた。
男はさらに話し続けたが、まるで解らない。
 「ごめん、中国語は解らないんだ。」
と決まり文句の様に憶えた中国語で回答すると、今度は英語で話しかけてきた。
 「Where are you from ?」
 「Japan.」
彼は、おぉ!と喜んで見せて、傍にいた男を紹介した。
この土地を旅して初めて見た日本人だった。

 「毎日事務所で過ごしてるから、この山道はキツいね。」
などと言って己の体力の無さを弁解すると、
 「自分もです。こないだ市民マラソンに参加したら、走り出した時点で身体が鈍っているの実感しましたね。」
と彼も同調したが、マラソンに参加して完走している時点でもう基礎体力の差を見せつけられる。
その彼がしんどいと言う山を私も登る。無茶な挑戦だったのだろうか。
とは言えここまで登ると、引き返して下山するのもさらに疲れる。
 「どこまで行くんですか?」
 「雨崩村まで。」
 「自分もです。ここまで来る途中にさっきの彼と話してたら、殆どみんな登頂したらそのまま下山するみたいで、単に登山を楽しみに来たっていうか、ハイキングみたいなもんみたいですね。」
雨崩村は自動車も入れないドが付く程の田舎村だ。
そんな所を有難がってわざわざ訪れるのは、物好きな中国人か外国人ぐらいしかいないだろう。
話を聞いていると、彼は国内で登山中に岳友会の人間と親交を持ち、そこで梅里雪山で起きた史上最悪とさえ言われる日本人登山隊の事故を聞いたらしい。
彼はリュックの中から一冊の本を出して私に見せた―――『梅里雪山 十七人の友を探して』。
 「ぼくのバイブルですね。」
休憩を終えると、彼は足取りも軽く再び山道を登り始めた。
マイペースで行くからと、私は彼に先に行くよう促すしかなかった。

再び山道を歩く。
砂利を踏む音と自分の荒い息が大きく聞こえる。
見回すと、談笑していた若者たちも言葉少なく黙々と歩き、パーティから取り残されたのか一人で歩く者もちらほらと見かける。
もう3000メートル地点は越えただろうか、傾斜が更に上がり、数歩歩く度に休憩を入れた。
吹き出す汗が顔面を伝って地に落ちる。
多少は平坦な道があってもおかしくはない筈だろうに、カーブを曲がる度にまた上り坂が眼前に立ちはだかっては愕然とする。
とにかく足を前に出しさえすればいずれ山頂に着くと己を励ましながら、一歩、また一歩と足を運んだ。
山小屋があり、そこがほぼ山頂であると知った。
山小屋ではインスタントラーメンが販売され、火の番をしている男が登山客に湯を注いでいる。
日本人の彼とはここで再会した。

昼食を挟み、二人で歩き出す。山の向こう側へ。
下山の途すがら、梅里雪山連峰が有無を言わさぬ迫力でもって眼前を覆った。
彼はメツモやジャワリンガなど各山峰の名称を口に出しては子供のように喜び、何度もシャッターを切った。
下山の道は急勾配が続く。
危なげながら慎重に足を運び、幾重ものカーブを曲がると、眼下に小さな集落があった。
若草色の地と点在する民家。
正しく雨崩村だった。
山頂までの登り坂ではカーブの度に何度も期待を裏切られたものだったが、今度は間違いがなかった。
山に囲まれた猫の額ほどの小さな盆地に拓かれた村。
自動車が入れない未開の村とのことだったが、しかし眼下では近年になって増加した外国人観光客に宛ててのことか、屋根に大きな文字で登山客を呼んでいた。
屋根には英語で「Wifi Free📶」と書かれているのだった。

Roba
Mekong below
Top of MtNansoMan taking photo
Yu-Pong-Cheon


scott_street63 at 17:29|PermalinkComments(0)