ラオス

August 01, 2020

Pomelo Guesthouse.


IMG_0722小さな集落に入って程なく、目的の宿「ポメロゲストハウス」に到着した。
素朴な看板に導かれて数歩歩いたところで、小さな門扉の向こうにウッドデッキのテラスが広がっていた。
すぐ手前に西洋人のカップルが向かい合って座っていた。
 「Hi.」
と声を掛けられ、
 「サバイディー。チェックインしたいんだけど、何処に行けばいい?」
と尋ねたところ、
 「ようこそ。ここでいいわよ。」
と女性が答えた。
 「え、オーナーは何処に?」
 「彼女さ。ぼくはスタッフさ、何もやらないけどね。」
と男が言ったが、冗談なのか女が笑った。
テラスはメコン川に向かって迫り出すように造られていた。
屋根は無く、夜気を含んだ心地よい風が昼間の暑さを忘れさせる。
ウッドデッキの中央には下から大きな樹が伸びていて、大きな緑の実を成していた。
なるほど、ポメロゲストハウス。
樹に成っているのは正しくポメロだった。
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ポメロとは日本で言うところのザボンに該当するだろうか、とにかく大きな柑橘類の果物だ。
バンコクではよく薄皮を剥いた実をプラスチックの食品トレイに並べて売っている。
果実を構成する一粒々々がとにかく大きく、しっかりと固いので食べ応えがある。
そして頬張った時に拡がる爽やかな、しかし甘過ぎない風味が私を虜にさせた。
父に連れられ初めてタイを訪れた際にその果実を紹介され、それ以来ずっと私の大好物となっている。
それだけにこの宿が気になっていたのだった。
 「あら、日本人?あちらの方も日本人よ。」
テラスのソファーで寝転びながら本を読んでいる男がいた。
こちらを向く訳も無く、恐らくは人里離れた所を好んでここまで来たのだろう。
こんな辺境まで来て日本人と会う不運を呪っているに違いない。 
同国出身の客に声を掛けない私に、彼女は不思議に思ったらしい、怪訝な間が空いた。
 「貴方がたは何処から?」
 「スイスよ。」
 「なんでまたこんな所に宿を?」
 「あら、多いのよ。あっちの島でも欧州人が開いている宿いくつか知ってるわ。」
北部ラオスでは中華系の宿をいくつも見たが、陽を浴びられるこちらでは欧州人の人気が高いということだろうか。
もっとも北部に中華系が多いのは、中国からタイへ抜ける交通の要衝としての理由だろうが。

 「部屋に案内するわ。」
と女主人から電気ランタンを渡され、テラスから外に出た。
民家の窓から灯りが漏れているものの、周囲はほぼ闇に近い。
ランタンで足元を照らしながら慎重に歩く。
2〜30メートルぐらいだろうか、思っていたより距離がある。
私の部屋は一軒のバンガローだった。
二部屋から成るスイートで、リビングと寝室、浴室と連なった手洗い。
浴室の床板には敢えて隙間を空けていて、水はそのまま地面に落ちる。
テラスには小さなテーブルと椅子が二脚。
カンボジアへ続くメコン川の水平線を眺望できる。
こんな部屋で一泊しか出来ないのはなんと惜しいことか。
 「ところで、明日の帰り道にコーンパペンの滝を見たいんだけど。」
 「コーンパペンはちょっと遠いわね。朝7時にここを出ることになるけど、それで良ければタクシーと船を手配しておくわ。」
 「幾らぐらいだろう。」
 「調べておくわ。」
 「後で夕食を食べに行くから、その時に教えてもらえたら。」
そう行って彼女が去った後、堪らずすぐに服を脱いで、シャワーで昼間の汗を洗い流した。
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夜、財布をリビングの机の上に置いたまま床に就いた。
日本に持ち帰るべくバンコクで引き出した会社の金と、クレジットカードを含む日本円用の財布はリュックの底に入れ、寝室に持ち込んだ。
隣のバンガローにも客がいるのか、遅くまで2〜3人の男の話し声が聞こえていた。
気味が悪く、寝室の照明をずっと点けたまま眠りに就いた。

朝7時、リュックを持って母屋へ向かおうと外に出て初めて気付いた。
隣にバンガローなど無い。
私の部屋は全くの一軒家だったのだ。
昨夜の男の声は何処から聞こえていたのだろう。
すぐに戻ってリビングに置いた筈の財布を探したが、忽然と無くなっていた。
母屋へ行き、女主人に理由を話し、日本円を入れていた別の財布から宿泊代を出そうと思って1万円札を出した。
 「日本円で払わせてもらえないかな。」
 「ごめんなさい、日本円は扱っていないの。これが幾らかも分からないの。」
と言われても、タイバーツは幾らも残っていない。
一度ナーカサンに戻って、両替商に日本円を替えられるか駄目元で訊いてみるか。
リュックの中の会社の金を調べると、バンコクで両替した大量の日本円と半端なタイバーツがあった。
パクセーに帰るには何とか足りる。
流用した分はバンコクで自分の金から補填すれば済む。
しかし宿泊代は…と肩を落としてシクロを待っている間に、男が女主人を呼んでパソコンを見せた。
 「えっ!」
と彼女は声を上げ、慌ててレジを引出し金を数え始めた。
 「両替レートで日本円を調べたわ。幾らお返しすればいいかしら。」
と私は逆に訊かれる立場となった。
しかし財布を失ったのは明らかに自分の過失だ。
盗られたという証拠が無い以上、自分が紛失したことに違いはない。
と言ってそのまま受け取ってもらうようにお願いすると、彼女は何度も「ごめんなさい」と謝った。
 「Don't say sorry. This is my mistake.」
 「But...it's so sorry」
 「No, please don't say...」
と押し問答が続いたが、最終的に男が彼女の背後から肩にそっと手を遣って、
 「Thank you so much.」
と柔和な笑顔で受け取り解決した。
彼女らを逆に恐縮させてしまったことで申し訳ない気持ちを残したまま、迎えに来たシクロで宿を後にした。
また必ず来よう。今度は3日は泊まるつもりで是非来たい。
そう思わせる、素晴らしい宿だった。

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余談:
冷房付きのバスでパクセーに帰って驚いた。
ターミナルでも何でもない住宅地で、バスは突如終点となった。
「バスターミナルは幾つもある」とはこのことだったのかと、漸く納得した。

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May 24, 2020

4,000 Islands.


メコン川は中国青海省を源流に、ラオスとミャンマー、タイとラオスの国境を隔ちながら、カンボジアを経てベトナムで南シナ海に流れる約4,000kmに及ぶ大河だ。
ラオスとカンボジアの国境をも成し、そこは世界一の幅を誇る滝となっているのだが、滝の手前では川幅が14kmにまで膨れ上がる。
その川幅の中には4千以上の大小様々な島が点在し、それらの島を纏めて「シーパンドン(4千島)」と呼ばれる。
大きい島には人が住んでいるのだが、今回は4千の島の中でも最南端のコーン島を目指す。

Mile Stoneパクセーから144km。途中2度の休憩を挟みながら終点ナーカサンに着いた時には既に午後5時を回っていた。
バスターミナルと呼ばれる広場から傾いた夕陽に向かって真っ直ぐ歩くと、茶色く濁った湖が水平線まで眼前に拡がった。
否、湖ではなく川なのか。
河口でもないのに島以外の対岸が見えない程に広い。


メコンに沈む夕陽

川端に渡し舟の小屋があった。
窓からぶら下げられた時刻表では最終便は5時半。間に合った。
 「コーン島まで行きたい。」
と小屋にいた男に尋ねると、
 「もう終わったよ。」
と如何にも面倒臭そうにこの新しい客をあしらった。
 「最終は5時半て書いてあるじゃないか。」
 「・・・一人?85,000kipだ。」
 「タイバーツで300でいいか?」
自国の通貨を信用しないラオスでは外貨での支払いが通用する。
タイバーツか米ドルに限られるようだが、最近では人民元も扱われているようだ。
ナーカサンに着いて両替所を見てみたが、日本円の記載は無かった。
男は300バーツを受け取ると、「ここで待ってな」と言ってチケット代わりの領収書を私に渡した。
河岸を見下ろすと船乗りの男たちが談笑している。
ビアラオの黄色い通し函が流通せずに山積している。
皆早く仕事を退けて一杯やりたいのだろうが、誰も川岸から上がって来ない。
かと言って男が川岸の船乗りを呼びに下りる気配もない。
ビアラオの通い函終業時刻が刻々と迫っている。
 「どれだけ待てばいいんだ。」
痺れを切らして質問すると、舌打ち交じりに漸く重い腰を上げた。
男は窓から川岸を見遣り、
 「下に行ってチケットを見せな。」
と、さも煩わしそうに言った。
結局彼は案内するつもりなど無かったのだ。
時間切れになることを望んでいたのだろうか。
岸に下りて船乗りに話すと、意外にもすんなりと乗せてくれた。

大きなエンジン音を伴って広い広い川面を進む。
余りの広さに下っているのか上っているのか、どちらが東で南なのやら判別がつかなくなる。
右手の島に集落が見える。
左手には人が一人立つのがやっとな小島が浮かぶ。
藪だけの島、誰も住まない島・・・大小様々な島が浮かぶ中を、船頭は着実に舵を操った。
大きな島に錆びた鉄橋が川に向かって寸断された形で建っていた。
ガイドブックでも見たが、大戦中に仏国軍がカンボジアまで鉄道を通そうと計画したものの、滝の激しさに断念したものらしい。
ラオスには戦争の痕跡を未だ残している所が多いが、ベトナム戦争の戦地でもあったことは余り知られていない。
船

約30分の船旅を経てコーン島に上陸する。
もう空が薄暗い。
コーン島は四千の島々の中で最も南に位置し、カンボジアとの国境に最も近い。
船着場はコーン島の最北端に位置していたが、今回予約していたゲストハウスは最南端に建っている。
川岸から階段を上った所の食堂でバイクタクシーを頼んだ。
 「すみません。ポメロゲストハウスに行きたいんですけど。」
食堂に座っていた婦人と小学生ぐらいの娘が私に目を向けた。
 「今からかい?」
婦人が驚きなのか迷惑なのか、どちらとも取れない表情を見せた。
 「すみません、今日予約してるんです。」
 「しょうがないね、連れてってやりな。」
と彼女は娘に言うと、娘は喜んで表に停めてあったシクロのバイクに跨った。
まさかこの10歳程度の女の子の運転で行くのか?
 「いつもの所だよ。」
とでも言ったのか、婦人は娘の背に言葉を投げた。
シクロを運転する娘
よく揺れる未舗装の道を走る。
宿は北部に多いらしい、欧米人の集まる洋風の食事を出す食堂が多く(と言っても3〜4軒)固まっていた。
ゲストハウス街を行き過ぎて程なく、娘は一軒の店の前でシクロを停め、店の中へ姿を消した。
居酒屋だろうか、時折り大きな笑い声が外にまで響く。
間も無くして一人の男が少女に連れられて出てくると、私を一瞥してバイクに跨った。
 「どこ行くんだって?」
酒臭い息が鼻を衝いた。
 「ポメロゲストハウス。」
 「遠いぞ?」
質問なのか単なるメッセージだったのか、男は私の回答を待つこともなくアクセルを回した。

街灯の無い真っ暗な畦道を、男はヘッドライトと月明りだけを頼りに踏み外すこともなく走った。
言うだけあって確かに遠い。大きな島だ。
北部と南部の間には民家など無く、ただただ畑とジャングルが続く。
最南端の島の最南端に胸が躍る。
もし目に見えるものであれば国境のラインが見えるかもしれない。
月夜の下、鬱蒼と茂る樹々のシルエットが風に流され揺れている。
シクロはまだ止まらない。

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May 02, 2020

On the way to Nakasan.


今年こそはと計画していたインド旅行は、またも潰えた。
豪華客船ダイヤモンド・プリンセス号の帰港以来急速に全国に拡散された病疫は、見る間に世界に広がり人々を恐怖に陥れ、二十万を超える生命を奪いながら、まだ飽き足りないように今も猛威を奮っている。
それまで未曽有の海外旅行ブームによるインバウンドで沸いていた商店街は今や息を潜めるようにシャッターを降ろし、外国人ツアーで日本を案内していた旅行会社は倒産へと追いやられ、国内に収まらず世界が経済恐慌へと導かれて行く。
「感染国」のレッテルを貼られた日本人は国土から出ることも出来ず、ゴールデンウィークと呼ばれる5月の連続休日は外出自粛の暗い日々へと変貌することだろう。
今年の休暇は大人しく家で過ごしながら、旅の空を懐かしむことにしようと思う。

ソンテウ

 「ちょっとちょっとちょっと、そこの兄さん、待っとくれよ。」
トラックバスの荷台に乗ろうと手すりに手を掛けた私に向かって、籠を抱えた婦人が大声で駆け寄ってきた。
 「パン買わないかい、パン。」
ラオスのパンと言えばフランスパンのバゲットが定番だと思っていたが、婦人が抱えている籠の中には、日本でも見かけるようなメロンパンやクリームパンなどの菓子パンが、それぞれ包装されて並んでいた。
 「すぐそこの工房で焼いてるのよ。今朝の出来立てだよ。」
とでも言っているのだろう、婦人は後方を指差しながらラオ語で捲し立てた。
 「要らない。」
と知っているタイ語で返すと、
 「そんなこと言わないで。ナーカサンまで行くんでしょ。途中でお腹空くわよ。一つどう?」
ラオ語は解らないのだが、婦人が余りに押してくるものだから、凡そ私の理解で間違えてはいないだろう。
婦人の勢いに気圧され、結局クリームを挟んだ四角いパンをひとつ買った。
手にすると思いのほか重い。
食べきれるだろうかと不安に思いながら、婦人は漸く私を解放してくれた。

荷台には女性ばかり居た。
皆家庭を持っているであろう歳の頃で、一人の女性は幼い姉妹と座っていた。
買い出しの帰りなのだろうか、その割には車内に大きな荷物は余り見えない。
姉妹の写真を撮らせてもらおうと母親に尋ねてみた。
 「可愛いですね。写真を撮ってもいいですか。」
女性は驚いたように、「え、ええ、どうぞ。」と承諾してくれたものの、写真に撮った姉妹の表情は強張っていた。
若い頃はよく子供の写真を撮ったものだが、もう四十半ばともなると、ただ気持ち悪い中年男性にしか見えないのかもしれない。
悲しい現実だ。
姉妹

道はなだらかな一直線だった。
緩い勾配で僅かに下っているようにも感じる。
アスファルトではないが、凹凸の少ないコンクリート舗装で快適と言えよう。
ただ蒸し暑さだけは耐え難かった。
座っているだけでも服の下で汗が滲む。
乗客も皆静かに耐えているように窺える。
姉妹は母親の腿に頭を乗せて眠っていた。

途中、車がスピードを落として停止した。
皆はっとして目を覚ます。
後方から一人の男が走って車を追い駆けていた。
新しい乗客だった。
来客の刺激に目を覚ました乗客は、少しの間持っていた菓子や果物を食べたりしたが、すぐにまた茹だるような暑さに静まり返った。
道はひたすら真っ直ぐに下っている。
途中、意外にも新しい、ラオスという国には似つかわしくない奇麗なドライブインがあった。
ただ貧しいだけと思えていたこの国も発展しているのだろう。
しかしバスは停まることもなく通過した。

突然大きな声で数人の女性が追い駆けて来た。
それぞれ手に籠を提げている。
鶏を串に挟んでタレを浸けて焼いたガイヤーンだった。
運転手は車を停め、運転席から手を伸ばしていた。
乗客も二人、買っていた。
ちょうど小腹が空いた頃だったから魅惑的に見えたが、自分には先ほど買った菓子パンがあった。
折角なので千切って食べた。

再び蒸し暑い中を駆る。
恐らくコンクリートからの照り返しも影響しているのだろう、空は憎い程の快晴で、雲に隠れることなく太陽が輝いている。
じわじわと沁み出た汗が顔面を流れ落ちる。
皆ぐったりと疲れ切っているように見えるのは、きっと勘違いではない。
シーパンドンを目指して走っているはずなのだが、メコン川は遠く離れているらしい、影も形も見えてこない。
もう結構な距離を走っているように思えるのは疲労の所為か。

車は再び停車した。
誰かが追い駆けて来る訳でもない。
前を見ると、幌の隙間から運転手が手を伸ばしているのが見える。
商店でジュースを買っているのだった。
それを見た乗客は皆、我も我もと買い求めた。
私の席からは商店の入り口は遠く、店員が店内に引っ込みそうになったところで、「コーラほしい」と正しいかどうか分からないタイ語で大声で呼びかけると、女性らが店員に「この人にもコーラあげて!」と店員を呼んでくれた。
氷水に浸けていたのだろうペットボトルは冷たく濡れていて、額や首筋に当ててから、キャップを開けた。
よく冷えたコーラが勢いよく喉を潤し、熱い身体を一気に癒す。
テレビCMでも観ているかのように車内に晴れやかな笑顔が広がり、偶然乗り合わせた乗客どうしに会話が生まれた。
姉妹もファンタで目を醒まし、眩い笑顔を私に向けてくれた。
車が再び走り出す。
なだらかな道は真っ直ぐに南へ向けて続いた。

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March 08, 2020

Beyod the Border.


計画していたインド旅行は、たった一通のEメールで儚く潰えた。
理由も何も無く、「貴方のフライトはキャンセルされました」と航空会社から唐突に届いたのだった。
形式的にバンコク駐在員事務所の所長になって以来、毎月末〜毎月初に訪泰している。
正月であれゴールデンウィークであれ、会計処理のために訪泰する。
天皇陛下の退位も即位も関係なく、十連休の恩恵に与ることもない。
ならばせめてと、バンコク発インド・バラナシまで1泊3日(機内1泊)の強行軍を計画した次第だったのだが、ビザを取って間も無く非情な通知が届いたのだった。
インドに呼ばれなかったということだろうか。
帰国の便を早めようと旅行社に問い合わせたものの既に全便満席。
十連休が確定した途端に予約が殺到したらしい。
それならば―――と、兼ねてから胸に温めていた計画を突如実行するに至った次第だった。


突き出した紫色の庇が空を刺す。
眼前に建つ国境管理局はタイの国花である蘭を形容しているのであろう屋根を一面紫に染め上げ、庇の一角だけを空に向けて突き立てている。
タイ東端の国境の町・チョンメック。
徒歩で国境を越え、ラオス最南端の島・シーパンドンを目指す。
屋根の下では4メートルはあろうかという巨大なワチラロンコン新国王の肖像画が出国する者を見下ろしている。

1570959593[1]

五月初旬のタイは予想以上に蒸し暑かった。
日本国内では平成から令和へと移る空前の十連休を迎えているにも拘らず、国外では何ら恩恵に与ることもない。
毎月末月初に渡泰せねばならない己の使命を呪いつつ、腹立ちまぎれに2泊3日の旅に出ようと、仕事を終えた晩の便で空を飛んだ。
タイ東部の主要都市・ウボンラチャタニで一晩を過ごし、翌朝8時半の国際バスでラオスへ渡る―――と思っていたのだが、国際バスは出発の30分前で既に満員だった。
仕方なく国境行きのトラックバスに乗り、今、国境の前に立つ。
こうして国境に立つまでずっと、メコン川こそが二国を隔つ国境を成していると思い込んでいた。
チョンメックだけが唯一徒歩で国境を越えられるポイントであるとは知ってはいたが、歩いて橋を渡るのか、はたまたトンネルを越えるという情報もあり、まさか大河の底を掘ったわけでもあるまいにと半信半疑だったのだが、何のことはない、必ずしもメコン川が国境であるとは限らないのだと、こうして国境に立って初めて知った。
出国手続きを済ませると、地下に潜る階段があった。
地下に掘られた10メートル程度の通路を歩いて地上に出ると、そこはもうラオス。

ラオス側出入国管理局1570959630[1]








入国管理局でアライバルビザの申請用紙に四苦八苦している欧米人を傍目に、ビザ不要の日本人としてスムーズに入国手続きを済ませると、すぐにタクシー運転手が声を掛けて来た。
意外にも声を掛けて来たのはただの一人で、大声で客を取り合う気配などまるで無い。
恐らくは国際バスを逃すような間抜けはそうそう居ないということなのであろう。
 「パクセー?」
 「イエス、パクセー。」
ラオス最南端を目指す前に、まずはラオス南部の都市・パクセーを目指す。
 「100バーツ、OK?」
 「バスターミナルまで行きたいんだ。」
小柄な初老の浅黒い肌の男は顔をしかめた。
 「バスターミナルは一杯ある。何処のバスターミナルだい?」
 「シーパンドンへ行きたいんだ。」
 「シーパンドンまでなら1000バーツ。」
シーパンドン行きのバスが出るターミナルと言いたいのだが、男の英語も覚束ないため、どう言って説明すれば良いのか思案に暮れる。
男も話にならないと諦めたのか、他の客が来ないかと視線を私から外した。
しばらく沈黙が続き、私も諦め他の運転手を探そうと男から遠ざかっても、彼は追いすがる素振りも見せなかった。
延々と続くアスファルト舗装の道を少しだけ歩いたものの、とても歩いて行ける距離では無いと困っていたところ、スクーターに乗った男が声をかけてくれた。
 「パクセー?」
 「イエス、パクセー。何処でもいいからバスターミナルまで。」
とりあえずバスターミナルに行けば何とかなるだろうと考えた次第だった。
 「OK。300バーツ、ユーOK?」
3倍の値段に驚いたものの、もはや彼にこの身を預ける以外の道は無い。致し方なくOKと答えた。
 「おれのヘルメットは?」
と訊いたところ案の定「ノープロブレム」という回答だったが、彼はしっかりフルフェイスのヘルメットを被っているのだった。

延々と続く完全アスファルト舗装の道を駆る。
排気量100cc程度のスクーターの目盛りは常に時速60km前後で維持している。
道の両側には耕作地でも牧草地でもない、手付かずの緑豊かな大地が広がる。
恐らくはグリーンベルトのようなものなのか、国境は越えているものの、何処の国にも属さない土地という範疇なのかもしれない。
途中で料金所のような大きなゲートがあり、写真を撮ろうと思って「ストップ、ストップ」と声を掛けたのたが、男はまるで止まらなかった。
聞こえなかったのか?
メコン川を渡る橋に来た。私は男の肩を叩いて、再び「ストップ、ストップ」と言ってみると、さすがに「オーケー」と応じてくれたが、やはり止まることはなかった。
何のオーケーだったのだろうか?
まるで不可解な旅が続き、出発してから約45分かけて漸く終点に着いた。
国境から実に45km。
乗合ではないマンツーマンタクシーなのだから、300バーツでも全く高くないことを知った。

男はバスターミナルがある市場で私を下ろし、サイドカーを付けたシクロの運転手に私を紹介した。
 「兄ちゃん、シーパンドンへ行きたいんだって?100バーツでどうだい?」
驚いた。
国境から300バーツだというのに、最南端までたったの100バーツで行けるのか?
外国人価格だったのか、もしくは思っていたほど遠くないのか?
 「本当に100バーツでシーパンドンまで行ってくれるのか?」
半信半疑で聞き返したが、
 「イエス、100バーツ。ユーOK?」
快くオーケー、プリーズとサイドカーに乗り込んだ。
男が走った先は果たして別のバスターミナルだった。
複数のバスやトラックバスが停まっている。
男は一台のトラックバスを指して言った。
 「このバスがシーパンドン行きだってよ。」
決して嘘つきではないのだが、南ラオス人とのコミュニケーションは難しいと知る。
南北に長いラオス。
初めて訪れた南部ラオスに地域性の違いを思い知った。

シクロ


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December 16, 2012

Choice the way to a brilliant future.


家を買った。
築12年の中古マンションだが、勤務先に近い、いわゆる都心部。
購入は9月末だと言うのに、12月現在、未だに引っ越さず住み慣れた賃貸に居る。
ぼちぼちと準備を進めているのだが、学生時代の写真や交換した手紙などが出て来るとついつい読み耽り、捨てようか捨てまいかと悩んでは手を止めてしまう。
月賦と家賃とを支払いながら、時間は過ぎて行く。
人生は一生では足りない。
我々の生きる時間は短い。
生きている間にはあたかも無限であるかのように錯覚するが、人の死を思う時、己に残された時間の短さを実感する。
我々は全ての事をこの一生では為し得ない。
我々は選ばなければならない、何を為し、何を放棄するのか。
取捨選択の分岐点に立つ時、時には捨て去る覚悟を求められる―――心地良き安住の地を、助けを求めて伸ばされた手をも。
選べない私は、前へ進めず、後にも退けず、立ちすくむ。
もう何年も立ち止まっている。
その事実に気付いていながら、成す術をも見出していながら、微動だに出来ない。
眼前に立ちはだかる分岐点。
時だけは無情にも前へ進む。


ムアンシンにて―――。
窓から覗く空は今日もどんよりと曇っている。
朝食を摂りに隣りの市場へと部屋を出た所で、隣人である欧米人カップルに呼び止められた。
 「フエサイからタイに渡ろうと考えているんだが、ここからシェンコック経由で行こうかルアンナムター経由で行こうか迷っているんだ。」
と言って手に持っていた分厚いガイドブックの地図を開いて私の前に差し出した。
地図の上に置いた人差し指は現地点・ムアンシンを指している。
 「シェンコックへ伸びる道はどう見ても長いのに、ここから3時間、ルアンナムターから伸びる道は短いのに、6時間と書いているの。貴方はどう思う?」
女が私に尋ねた。
ルアンナムターからフエサイへのルートは今でこそ舗装されているものの、2001年当時は悪路中の悪路だった。
乾期で6時間だが、雨季は道がぬかるんで沼と化すため、その倍か、酷い場合は重機が到着するまで車中で一晩を過ごさなければならない。
ラオスを周遊していた当時はまさに雨季の最中の8月。
旅に出る前に収集した情報から、私はシェンコック経由で行くことを決めていた。
 「僕はシェンコック経由で行くよ。地図で見る限りでは長いけど、きっと緩やかなんだと思う。」
そう答えたが、二人はまだ決め兼ねている様子だった。

午前9時、シェンコック行きのソンテウに乗り込む。
曇天の下に広がる水田に沿って国道を暫く走ると、道は二手に分岐する。
左に折れて水田に挟まれた道を進むとルアンナムター、前方に密林の広がる道へと直進すればシェンコックへ辿り着く。シェンコックに続く道
やはりシェンコックへ向かう道が正解だったらしい。
路面は固く安定し、カーブは緩く苦にならない。
途中、酷いぬかるみに足を取られた車が何台も居並び渋滞したが、1時間もかからず抜け出せた。
雨季の北部ラオスでは上出来である。
密林を抜け、やがて民家が道沿いに現れ始めると終点は近い。
ソンテウは小さな村のどん詰まり、メコン川の船着き場で停車し、乗客は皆下ろされた。シェンコックでルアンパバーン以来のメコンと再会。シェンコックのメコン
100メートル程度の川幅を隔てて隣国・ミャンマーと接している。
雨季で増水したメコンだが、川幅が狭くなっても音も立てず静かに流れる。
標高が高いため川面の上に雲がかかり、より神秘的に見せた。

乗客の中に欧米人の夫婦がいた。
泥に足を取られてソンテウから降りた際に話したところオーストラリア出身らしく、長期休暇が貰えなかったから会社を辞めてこの旅に出たと言う。
タイへ旅行に来る夫の両親と落ち合うためにも、明日メコンを下ってフエサイへ行かなければならない。
しかし彼らの持つガイドブックにもこのシェンコックの情報は乏しく、何処に宿があるのか分からない。
とりあえず3人で散策して宿を探すことにした。
シェンコックは歩いて回れる程に小さな町だった。
宿泊施設は2軒しかなく、そのうち彼らは40,000kipのロッジを、私は20,000kipの宿舎を選び、また明日と言って別れた。

ゲストハウス

ロッジ

翌朝、船頭との料金交渉は難航した。
細い船にどデカいエンジンを積んだスピードボートの船頭が言った。
一艘貸し切りなら6,000バーツだと。
 「おかしいわよ、この本では一人500バーツだと書いているのよ。」
 「燃料が高騰してるんだ。そんな値段で行けるか。」
 「だからって1人2,000バーツなんてあんまりよ。500バーツじゃないと乗らないわ。」
 「嫌なら他の客が来るまで待ちな。来るかどうかも分からんが。」
女は強気一辺倒で引き下がろうとしない。
しかし相手も我々には船で行く以外の手段が無いことを知っている。
私は2,000バーツ出してもいいから早く船を出して欲しかったが、そんな事を言って仲違いする訳にもいかない。
そこで夫が口を開いた。
 「せめてもう少し負けてもらえないか?」
私は早く出たい一心で、上の空でそのやり取りを見ていたが、山間にカーブして消えて行くメコンの流れに心を奪われた。
 「Hey, 1人1,200バーツでOKだ。持ってるかい?」
一体どういう交渉をしたのか、6,000バーツが3,600バーツまで値下がった。
彼の妻はまだ不服そうだったが、私はすぐに支払った。

ボートは轟音と共に川面を飛ぶように発進した。
遠目に見ると静かに流れるメコンだが、流れは想像以上に速い。
おまけに水量も半端ではないためボートを揺らす波の力が強く、真正面から波とぶつかる度にボートは宙に跳び、すぐさま川面に打ち付けられる。
下手をすれば舌を噛みかねない。
私はいつ転覆しても良いようにこっそり靴紐を解いておいた。
1時間程走っただろうか、ボートは急に止まった。
川の真ん中で船頭はエンジンを2〜3度空吹かし、再び発進してはまた止まった。
まさかこんな所でエンジントラブルか?と危ぶんだが、船頭はまた何事も無かったようにボートを走らせた。
安堵したのも束の間、船頭はミャンマー側に停泊していた木造の貨物船の脇にボートを着けた。
大声で船主を呼び、顔を出した船主と何事かを話すと、彼は顔を引っ込めた。
そして船頭は言った。
 「エンジンの調子が悪い。俺は一旦戻るから、暫くここに居てくれ。」
 「暫くって、どれぐらい?」
夫が尋ねたが、船頭は焦ることもなく答えた。
 「I don't know.」
そう言って私らは何処の誰とも得体の知れないボートピープルに身柄を預けられることになった。
もしかして嵌められたのか?
一同呆然としながら、Uターンして帰って行くスピードボートを見送った。
出発前に相当揉めたこともあり、本当にまた戻って来るのかという不安が過ぎる。
己の選んだ道の顛末に、脱力し切って嗤う気力も起こらない。
静寂が間を埋める。
鳥の声すら聞こえない。
時折り木造船が音を立てて軋む。
妻がぽつりと呟いた。
 「Bye-bye, 1,000 Bahts.」
彼女の声は川面に落ちて空しく消えた。


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July 28, 2012

A Midsummer Night's Dream @Muang Sing


節電の夏始まる。
計画停電は果たして実施されるのか。
エレキテルの発明以来、我々は電力によって数多のアビリティを獲得して来た。
夜は昼の様になり、遠隔の友と顔を合わせて交信出来る。
電力こそ文明を拓く力。
国威を示さんとラオスの紙幣の裏には水力発電用のダムが描かれる。
しかし我々は力を獲得したつもりでいて、実は捕えられたのは我々なのではないかと時に疑わしくなる。
人は何かを所有することで、逆に囚われ束縛される。
言わば己が首を己れで絞めるが如し。
我々は気付かなければならない、何も持たぬ贅沢に、不便であることの自由に。
計画停電ならぬ計画「通電」であったムアンシンを懐かしむ。


午前9時、ルアンナムターを出発したソンテウは両手に水田の広がる道を走った。ソンテウ
荷台を客席に改造した2トントラックには朝市で買い物を済ませた乗客と荷物を満載している。
ムアンシンへ向かうこのバスの中では、外国人である私を特に珍しく見る目は無かった。

2001年8月、ラオスの首都ヴィエンチャンから国道13号線に沿ってバンビエン、ルアンパバーンと1週間をかけて回った私は、8日目に訪れたルアンナムターで初めて計画通電を知り、衝撃を受けた。
通電時間は夕方6時から9時までの3時間。
その時間以外はテレビはおろか室内の照明も使えない。
6時になると住宅街の其処此処から収録された嘘くさい笑い声が漏れ、9時が過ぎた途端に町中のブレーカーが落ちたように静まり返る。
街灯も点かず、街は暗闇と化す。
聞いてはいたものの、いざその最中に身を置くとやはり衝撃的であり、如何に自分が電力に依存していたかと思い知らされた。
とは言え2日目には慣れるもので、ムアンシンの通電時間がさらに短い2時間と聞いたところで、特に不安になることもなかった。

ムアンシンは非常に小さな町だった。
中国国境へと向かう国道沿いとその周辺に商店や民家が点在している。
バスはその中心に位置する市場を終点としていた。
雨傘を差す程でもない微妙な小雨続きの天候に、不快にぬかるんだ市場の地面を踏みながら国道に出る。
辺境の町だけにどの宿も程度はあまり変わらないと見え、安直に市場の隣りのゲストハウスにチェックインした。バンガロー(?)
竹を編んで作られた簡素なバンガロータイプ。
一棟2部屋で構成され、私の通された部屋の隣りは欧米人カップルだった。
とりあえず「Hi.」と挨拶を交わした。

町内を散策に出ると、アカ族の衣装を身に纏った老婆が数人、みやげ物の様な手工芸品を売り回っていた。
一人が私に話しかけて来たのでカゴの中を覗いていると、他の売り子も一斉に私の周りに集合し、我も我もとカゴを見せてくる。
一人から黒い布に青い糸で木の実を幾つも縫いつけたリストバンドを買うと、他の老婆も次々に同じ物を差し出して来る。
断ると、
 「アイツのは買ったのに私のは買わないなんてズルイじゃないか!」
とでも言っているように怒り出す。
それでも断り続けていると、終いには肩に掛けていたカバンから乾燥させた大麻を出して来る始末。
多くの旅人がこのムアンシンを好んでいると聞くので来てみたが、私には余り好きになれなかった。うろつく老婆

宿に戻ると、私のバンガローの隣りの棟にひと組のカップルがウッドデッキで話していた。
一人は短髪で、見るからに日本男児的な黄色人種。
もう一人は褐色の肌の小顔美人。
インド人か?…とすると隣りの男は日本人じゃない?
そんなことを考えながらバンガローへ続く道を歩いて行くと、彼らも会話を止めて接近する私を凝視して来た。
互いの正体を探り合う微妙な距離と気まずい沈黙。
口火を切ったのは褐色の女だった。
 「アーユージャパニーズ?」
日本人特有のベタな発音に、どこがインド人なのかと自分の目の節穴さ加減に呆れてしまった。
彼らは彼らで、私が日本人とは思えなかったと言う。
その可笑しさにまずは3人で笑い合った。

遅い午睡の後、夕方、突然部屋の照明が明るくなった。
外は既に暗く、通りに出ると彼方此方からテレビの笑い声が聞こえて来る。
遅れて出て来た隣りの日本人と合流して近所の中華料理屋に入ると、各国からやって来たバックパッカー達がテレビでサッカーを観ながらビールを飲んでいた。
我々3人もその中に入り、食べて飲んで笑った。
国籍に囚われず騒ぐ楽しい宴に、突然の停電が水を差す。
通電時間が終わったのだ。
あっという間の気ままな宴会が開けて外に出ると、真っ暗な道端で露天商が懐中電灯をぶら下げて商いを続けている。
上空では厚い雨雲の切れ間から粒の大きな星が幾つか地上の生活を覗いている。
露店でビールを買って二人の部屋にお邪魔した。
ローソクに火を灯し、3人で囲んで旅の話に花を咲かせる。
男が鞄から小さな紙と煙草の葉を取り出した。
巻きタバコか。
紙と葉を別々に買うと安いんだよな、と思っていたが、煙草にしては匂いがなんだか甘い。
 「吸ってみる?」
 「馬鹿、勧めるなよ。」
と男が制したが、女から手渡された1本を口に咥えながらローソクの火に近付けて息を吸い込んだ。
メンソールのような、植物系の香り。
 「煙草は合法なのにコッチは非合法っておかしいと思わない?煙草だって中毒性あるしカラダにも悪いんだから、こっちの方がむしろ健康的じゃない。」
話を聞きながらもうひと口吸い込んでみたが、咽せ返してしまった。
煙草の吸えない私には、それでさえも猫に小判なのかもしれない。
時々激しく揺れるローソクの不安定な火は、ただそれだけで妖しくも心地良く扇情させる。
夜の静寂に澄む虫の声、甘い香りとアルコール。
とろけるような辺境の夜。
暗闇に包まれて人は蠢く。
真なる夜を知った。


後日談
メコン川を渡ってタイに入国した所で、今からまさにラオスへ渡るイスラエル人カップルと出会った。
 「ラオスはどうだった?」 と聞かれ、
 「電気が2時間しか使えない。」 と答えると、
 「ファンタスティック!」 と笑顔で返された。
停電万歳。

テレビに群がる子供ら


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October 26, 2010

Discommunication.


宇宙人との会話は成立するのか―――。
深夜のマクドナルドで友人とそんな話になった。
我々地球人は基本的に言語を口腔から発して会話する。
一言で片付かない複雑な想いを持っていても、発する場所は口腔の一つしか無いものだから、人は手振りを大きくしたり声高に話したりして言葉を補い、終いには怒るか泣くかなど感情を昂ぶらせ、通じない相手にじれったさを覚えて煩わされる。
広大な宇宙の中には地球人よりも遥かに進化した生物が存在すると考えられている。
彼らは音声ではなく、目から発する光で会話するかもしれない。
その光は一瞬の内に多くのデータ(想い)を発信することが出来る。
そんな宇宙人を目の前にした時、我々アナログな地球人は彼らと会話を成立させることが出来るのだろうか。
彼らからすれば進化の遅い地球人は野を走る獣と変わらないのである。
旅の間の言葉はどうしているのかとよく尋ねられる。
英語の通じない所も多い。
それでも伝えたい想いと理解に努める優しさが相互にある限り、何とかなる。
地球人同士で良かったと安堵する限りである。


ポンサーリーは中国系プーノイ族が人口の大半を占める街である。
街中で交わされる言葉もプーノイ語であり、聞こえる響きはタイ語に近いラオ語とは異なり、中国語に酷似している。
ポンサーリーでの主食は主に米粉を練った麺であり、バゲットも餅米も見かけない。
ここはもはやラオスにあってラオスではない。

ポンサーリー3日目の朝、早くも帰途に就く時を迎えた。
片道三日を要するため、7日間の休暇では丸一日滞在するのが限界だった。
バスターミナルに行くと、ウドムサイ行きのバスの隣りに思いがけずヴィエンチャン行きのバスが停まっていた。
これに乗れば途中で1泊することもなくルアンパバーンへ直接行くことが出来る。
乗車券売り場の窓口に聞くと、ルアンパバーンまで110,000kip、8時の出発。
切符は車内で買ってくれと言う。
私はこのヴィエンチャン行きのバスに乗り込み、ウドムサイ行きのバスを見送った。

出発までの30分を同じ車内に乗り合わせた数人の客と待つ。
―――が、定刻になっても運転手は現れない。
やがて車外で走り回っていた助手と思われる男がバスに乗り込み乗客に向かって何かを話すと、他の客は何も言わずにバスを降りていった。
訳が分からず、彼にタイ語で尋ねてみた。
 「アライナ?(何だ?)」
通じたのかどうか判らないが、彼が何を答えても私には理解出来る筈もなかった。
それを見て取った男は、ジェスチャーを始めた。
まずはハンドルを回す仕草―――運転手のことだろう。
次にバスターミナルの隣りのゲストハウスを指差し、両手を顔の横で重ねて目を瞑って見せた。
つまり、運転手がまだゲストハウスで寝ていると言うのか?
ならば何時に出発するのか?
 「キーモンチャパイ?(何時に出発する?)」
恐らく通じるだろうと思い、もう一度タイ語で尋ねてみた。
 「ムンウー、パーディエン」
【パーディエン】8時。【ムンウー】―――解らない。
 「プルンニーパーディエン?(明日の8時か?)」
 「ムンウー。ムンウーパーディエン。」
時間だけは解るのだが、大事な部分がさっぱり解らない。
もしかして今夜の8時なのか?
ノートを出して時計の絵を描いて見せた。
8時を示した時計と太陽。
そして矢印を書いて、次に8時を示した時計と三日月と星を描いた。
 「ムンウーパーディエン、ボー?」
次第に複数の男らに囲まれていたが、みな首を傾げた。
さらに矢印を書き、再び朝日と8時の時計を描いて見せる。
しかしそれでも皆目解らないらしい。
どうも絵の意味が理解できないようだ。
最後の頼みと思ってガイドブックを開いてみた。
私の持っているものは2001〜2002年版と古いものだったが、巻末の頁を繰っていくと、見付けた。

 【ムンウー】明日

そうだ!これだ!と周りの男たちも目を輝かせて喜んだ。
苦労の末に漸く理解し合えた喜びに助手と私は互いに握手を交わし、他の男たちも晴れやかな表情で解散して行った。
私には絶望的な宣告を突き付けられただけだとは、さすがに誰も解らなかったようだ。


言語が違うからなどと恐れることは何も無い。
むしろ同じ言語を話しているからこそ理解し合えないことも多い。
言葉尻ばかりを捉え、言葉の裏に隠れた真意を読み解く努力を怠っていないか。
言葉の通じない者同士だからこそ相手の真意を知ろうと必死に努める。
諦めて突き放さず、理解し合えるまで我慢強く対話を重ねる。
その努力こそあれば、変わる結果も多いに違いない。


因みに翌日、贖罪のつもりかバスは無茶なスピードで一気に山を駆け下り、
なんとか0時を回る前にはルアンパバーンに辿り着けた。
信じてみるものだ。

(今日の写真:プーノイ族の姉妹。確かに中国人ぽい。)
20100502_105

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September 13, 2010

ポンサーリー


それが日本隋一の「酷道」であると知ったのは随分後のことだった。
奈良県十津川温泉郷と和歌山県龍神温泉を結ぶ国道425号線。
ナビゲーションの示すままにその道に踏み入れると、そこはガードレールも十分に無い急カーブの続く細道であり、それでいて一方通行などではない。
アスファルト舗装を僅かでも踏み外すと、崖の下に真逆さまに転落する。
十津川温泉湯巡りを日帰りで満喫した後だったため、時は既に夕刻。
助手席に座る妻と共に死を意識した。
驚くべきことに、この「酷道」沿いにも人の住む集落がある。
何を好き好んでこんな不便極まりない場所に居を構えるのか。
こんな時、兄は決まって言うのだった―――平家の残党の村だと。
無論冗談なのだろうが、妙に真面目くさった顔で言うものだから、幼少の私は簡単に信じたものだった。
ならばポンサーリーもまた平家の残党の村に違いない。


暗闇に包まれた山道を雨に打たれながらひたすら上る。
上って上って上り詰め、雨雲を突き抜けると、大粒の星を無数に散りばめた夜空が頭上に拡がった。
標高1,400メートルの山上に拓かれたポンサーリー。
街は雨雲よりも高く、空に近い。
バスターミナルに1台だけ停まっていた市内行きのトゥクトゥクに促されるままに乗車すると、何も言うまでもなく自動的に「ヴィパポーンホテル」の前で降ろされた。
ホットシャワー付きで80,000kip。
同じバスに乗り合わせた外国人バックパッカーらは高いと言って他の宿を探しに出てしまったが、短期旅行で日本人の私にすれば、疲れ切った身体にホットシャワーは格別に魅力的だった。
80,000kipは日本円に換算すれば900円弱でしかない。

翌朝、展望台に上って街の概形を確認した。
街は二つの山頂に跨って拓かれた瓢箪型で、二つの区画の間を尾根伝いの道が結んでいる。
どちらの区画にも大きな施設があり、通常なら寺院であると思われるのだが、近寄ってみると、どちらも共産党の施設なのだった。
入口には自動小銃を手にした警備員が立ち、私が近寄ると、「入るな」と言って銃口を向けた。
1975年、ヴィエンチャン陥落によってベトナム戦争が終結し、共産化と共に王制が廃止されたラオスだが、ここまで徹底した共産色を見せる街は初めて見た。
辺境ほど政治色を色濃くアピールするものなのだろうか。
共産党の守護のお陰か、街中は基本的にコンクリート造りの家屋が多く、静かで慎ましい生活が営まれているのだが、バイクを借りてひと度街を出ると、今にも崩れそうなほど粗末な木造の家屋が山道沿いに並ぶ。
どの家も前で茣蓙を敷き、茶葉を干している。
茶は中国雲南省に隣接するポンサーリーの名産品でもある。
山の斜面に植えられた茶畑から女性達が茶葉を摘んだ籠を頭から提げ、各々の集落に向けて裸足で坂を上っていく。
中には子供も一人前に籠を提げている。
その傍らを山上の住人が車やバイクで素通りして行く。
ポンサーリーでも茶葉を買うと結構値が張る。
にも関わらず茶農家のこの貧しさを見ると、仲買人の暴利は一体何処に消えているのだろうか。
街に戻りバイクを返したところで呆気に取られる光景を目の当たりにした。
老婆が愛犬を伴ってゴミ捨て場で何かを探しているようだった。
様子を見ていると、彼女はゴミ袋の中から残飯を見つけ、愛犬を呼び、犬と共に食べ始めたのだった。
閑静な街中でゴミ袋を漁る彼女に目を奪われた私は、暫く動けなかった。

共産主義とは何なのだろうか。
主義や思想とは人の幸福のために生まれたのではないのか。
この世に王国など無い。
この世に王国など無い。
ならば平家の落武者よろしく人里離れた寒村で息を潜ませ暮らしながら待ち焦がそうか。
約束の地に向けて荒野へ連れ出すモーゼの如き羊飼いを。
王国の来たるその日まで。


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July 31, 2010

ココデハナイドコカ


久し振りに流行りの新刊を買った。
村上春樹の『1Q84』全3巻。
青豆という一風変わった名前の女が“天のお方さま”への祈りを口ずさむ―――「王国をもたらせたまえ」と。
新約聖書『ヨハネの黙示録』にて預言されたキリストの再臨と千年王国の建立。
その王国は栄光に輝く、完全な世界となる。
C.イーストウッド監督による映画『パーフェクトワールド』。
刑務所を脱獄したブッチ=ヘインズが少年フィリップと共に盗難車を走らせたのは、幼少の頃に別れた父がいるかもしれないアラスカを目指してのことだった。
父からたった一度だけ届いたアラスカの絵葉書は、ブッチにとって胸を焦がす理想郷として映ったに違いない。
しかし道は閉ざされ、敢え無く警察の凶弾に倒れることになる。
偶然か必然か、青豆とフィリップの親は同じ宗教の熱心な信者であった。
寝る子は育つとも言うが、子供らは夢を抱いて成長する。
たとえ肉親であっても子供から夢を奪う権利など無い。
しかしそんな主張など所詮は理想論であり、現実には在り得ないネバーランドなのか。
理想郷を【Erehwon】と皮肉る様に、そんなものは【Nowhere】何処にもありはしない。
我々はそう認識しながらも、心の奥底ではその存在を、その来臨を、強く待ち望んでいる。
我々は皆ただ漠然と、此処ではない何処かを夢見て生きている。
待ち切れない私はそうして旅に出る―――在る筈のない「王国」を求めて。


朝7時、晴れとも曇りとも取れない煮え切らない空の下、70リットルのバックパックを担ぎながらやたら広い閑散とした道を歩く。
北部ラオスの交通の要衝=ウドムサイ。
昨日ハノイから国際線でルアンパバーンに降り立った後、同日の内にこのウドムサイまでバスを乗り継いだ。
この町で一晩を過ごし、また今日もバスで駆ける―――山上の町・ポンサーリーへ。
そこに何が在るのか分からない。
ただ何故だか初めてラオスを訪れて以来その町の地を踏みたいと願いつつも、機会に恵まれなかったのだった。

バスターミナルとは名ばかりの粗末なトタン屋根の下に、使い古されたバスが頭を屋根に突っ込むような形で並んでいる。
何処かの国で廃車となって格安で払い下げられたようなバスや、少年野球チームが遠征試合に使っていそうなマイクロバス、荷台にベンチを据え付けただけのトラックや軽トラ、ピックアップ…。
バスに乗る客を狙って、物売りが商品をカゴに目一杯乗せてウロウロしている。
1日1便のポンサーリー行きのバスは、出発30分前で既に荷物も人も満杯だった。
バスの天井の荷台で雨除けのビニールシートを二人がかりで張っている男らに話しかけた。
 「ポンサーリーに行きたいんだけど。」
そう言って背中のバックパックを指差すと、
 「もう無理だ。中に持って入ってくれ。」
そう言われて車内に入ってみると、通路は荷物で埋もれていた。
運賃を徴収する男に85,000kipを支払い、荷物を踏まないように座席の肘掛けから肘掛けへと足を運ぶ。
最後列から3列目の通路側。
バックパックは泣く泣く土埃に塗れた通路に置いた。
座席を確保してから朝食を買うつもりだったのだが容易く外に出られる状態ではなく、窓から顔を出して売り子を呼ぶことにした。
 「カオラーム!カオラーム!」
トタン屋根の下にいたカオラム売りを呼んだつもりだったのだが、私の声を聞いた女が5人、我先にと声を上げながら全速力で駆け寄ってきた。
仕方なく公平に、先着した女からカオラムを2本、飲み物も持っていた女から水とオレンジジュースを買った。

低いエンジン音が唸り、定刻を待たずにバスはゆっくりと出発した。
まずはバスターミナル傍のガソリンスタンドで給油する。
車内ではその間に前から順にビニール袋が配られた。
2時間ほど走るとバスは凹凸とカーブの激しい未舗装の山道に踏み入れた。
激しく砂煙を巻き上げながら山肌に沿って右へ左へと器用に曲がる。
時々大の男が尻から宙に浮いては打ち付けられる。
見ると周囲では早くも数人がビニール袋を口元にあてがって顔を突っ伏している。
もちろん車体にも影響が大きいのか、補修のために何度も途中で止まっては30分〜1時間の休憩となる。
その度に男も女も道路脇の草むらへと消えて行って用を足した。

ラオスの山道にトンネルなどという洒落たものは無い。
ひたすら山を上っては下りて行く。
バスは山岳民族の集落を幾つも抜けた。
ある集落は山の天辺にあり、ある集落は谷底にあった。
野焼きの季節だったのか、山は幾つも燃えていた。
バスは黒焦げの山や、未だ燻って煙の立ち込める山に沿った道をも走る。
奈良県の吉野から和歌山県の本宮へ、修行中の山伏が今も駆け抜ける大峯奥駆道を思い起こす。
ポンサーリーへの道程は険しい修行さながらである。

ウドムサイを出発してから約10時間後、比較的大きな町に到着した。
日もとっぷりと暮れ、東の空では既に夜が始まっていた。
乗客もほとんど下りて行く。
 「ここがポンサーリーか?」
手近にいた乗客に訊いてみた。
間違いないだろうと思っていたのだが、
 「違う。ポンサーリーはまだ先だ。」
ということだった。

再び出発したバスはひたすら坂を上り始めた。
町を出る際に降り始めた雨が次第に強さを増していく。
街灯などある筈もない暗い山道を、運転手はヘッドライトと勘だけを頼りに飛ばして走る。
蛇行する道に沿って右へ左へと曲がりながら、上る、上る、念願の山上の町へ向けて。
―――王国をもたらせたまえ。
青豆の祈りを思い出す。
王国の来臨は何時になるのか、多くの者が待ち望みながら、見果てぬままに死んで行く。
来ないなら、いっそこちらから出向くまでだ。
たとえそれが死の淵の彼岸に在ろうと。

横殴りの雨に打たれながら、上る、上る。
闇の向こうに在る王国を信じて。


(今日の写真:エンスト中 @ラオス)
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May 31, 2010

TAXI 3


旅慣れたと言えば聞こえは良いが、私のそれは、泥沼に片足を取られ半ば沈み掛けているに過ぎない。

安宿、とりわけドミトリーに投宿すると、最後に帰国したのがいつかも容易に思い出せない旅人が稀にいる。
旅人という不安定でありながら何処にも所属しない居心地の良さに安住し、旅することに身勝手な大義名分を探しながらいつまでもモラトリアムに耽り続けることを、我々は「沈没」と呼ぶ。
そんな「沈没」した彼らの世界に、私も身体半分を埋ずめかけている。
遠足の日に限って早起きするような人間は健全な精神の持ち主と言えよう。
私にとって旅は今や日常の延長でしかなく、ネクタイを締めてビジネス街を歩いている時や、家でテレビを観ながらぼんやりと過ごしている時と何ら変わらない。
つい寝坊をしてしまうのもいつも通りのことなのだ。


2001年に初めてラオスを周遊して以来、地図を拡げて見る度に、最北端にあるポンサーリーという町に行ってみたいと兼ねてから願っていた。
隣接する中国やベトナムに喰い込むように突出した地形の中にあるその町は、雲南省にかけて標高を上げていく北部ラオスの山間、標高1,400メートルに位置する。
何があるのかは分からない。
何も無いのかもしれない。
ただ純粋にその町の土を踏んでみたいと強く願い続けたこの9年間の想いを、この黄金週間に実現する機会を得た。

日本からポンサーリーへは片道3日を要する。
日本からまずはベトナムのハノイで1泊したのち翌日にラオスの古都・ルアンパバーンへ飛び、空港からバスターミナルへ直行して同日のうちにウドムサイまで移動してまた1泊。
そしてまた翌日、約10時間かけてバスでポンサーリーにようやく到着する。
移動に次ぐ移動。
一刻の無駄も許されない。
にも拘わらず、ハノイで朝を迎えた時には、既にルアンパバーン行きのチェックインが始まっている時間だった。
ハノイ発ルアンパバーン行きVN869便は9時のフライト。
チェックインはその2時間前の7時〜1時間前の8時まで。
そして私がホテルで目を醒ましたのは午前7時5分だった。
飛び起きた私は顔も洗わず荷物をまとめてチェックアウトを済ませ、タクシーに飛び乗った。

 「国際空港まで。急いでくれ。」
とは言え、空港まで35キロ。約1時間はかかる道のり。
9年間の希望をこんな中途半端な所で潰してしまう訳にはいかない。
私は日本から持って来た携帯電話でハノイ市内にあるベトナム航空へ電話をかけた。
まずは音声ガイダンスがベトナム語で流れ、次いで英語が流れる。
フライトの情報は1と#、予約は2と#、リコンファームは…と順に進み、私は「その他」の4と#を押した。
そして保留の音楽が流れ出す。
『禁じられた遊び』。
哀愁を帯びたメロディーに苛立ちも加速する。
電話が係員に繋がるまで実に2分も待たされた。
 「ハロー?May I help you ?」
 「Yes... 今日のルアンパバーン行きを予約しているんですが。」
 「リコンファームですね?」
 「No! 今日の9時のフライトを予約してるんですが、遅れそうなんです。今空港へ向かう途中なんです。チェックインカウンターは何時に閉じますか?」
 「Just a moment.」
そしてまた流れる『禁じられた遊び』。
8時に閉まることは私でも分かっているのに、話す順番を間違えてしまった。
 「ハロー?8時に閉まります。」
 「私はたぶん8時に間に合いません。延長してもらえませんか?」
 「Ah.. Just a moment, please.」
そして再度あのメロディーが。
熱帯の日差しは車内でも窓を通して肌に刺すように降り注ぐ。
暑いからか焦燥からか、じわりと汗が滲み出す。
 「ハロー?ではチェックインカウンターに直接電話をかけて下さい。電話は04-……」
すかさずメモを取り、すぐにその電話番号に掛けた。
が、電話はコール音すら鳴らずに切れた。
三度かけたが全く繋がらない。
仕方なくもう一度オフィスに電話をかけた。
また音声ガイダンスからのやり直しに腹が立つ。
 「ハロー?May I help you ?」
先とは違う係員のため、また一から事情を説明する。
 「それではカウンターの電話番号を申し上げます。」
 「いや、さっき聞いて掛けたけど繋がらないんだ。アンタからカウンターに伝えてもらえないか?」
 「分かりました。それでは航空券番号を教えてください。」
期待を胸に抱きながら読み上げた。
 「Hold on, please.」
これで大丈夫だろうと胸を撫で下ろしながら『禁じられた遊び』を聞き流す。
 「ハロー? Sorry, I cannot help you.」
絶望の最終通告。
この時点で既に7時55分。
後は空港のカウンターでゴネるしかない。
8時10分、空港に到着。
頑張ってくれたタクシーの運転手にチップを弾み、腹を括ってカウンターへ向かった。

…が、カウンターはまだまだ余裕で開いていた。
それどころか同じくルアンパバーンへ向かう欧米人旅行者が私の後ろにも並び出す始末。
フライトの時刻が変更になった訳でもない。
どっと疲労が押し寄せ、緊張が解けたのか汗が急に流れ出した。

ファイナルコールを呼ぶボーディングゲートへ、いざ向かう。

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