ラオス

December 16, 2012

Choice the way to a brilliant future.


家を買った。
築12年の中古マンションだが、勤務先に近い、いわゆる都心部。
購入は9月末だと言うのに、12月現在、未だに引っ越さず住み慣れた賃貸に居る。
ぼちぼちと準備を進めているのだが、学生時代の写真や交換した手紙などが出て来るとついつい読み耽り、捨てようか捨てまいかと悩んでは手を止めてしまう。
月賦と家賃とを支払いながら、時間は過ぎて行く。
人生は一生では足りない。
我々の生きる時間は短い。
生きている間にはあたかも無限であるかのように錯覚するが、人の死を思う時、己に残された時間の短さを実感する。
我々は全ての事をこの一生では為し得ない。
我々は選ばなければならない、何を為し、何を放棄するのか。
取捨選択の分岐点に立つ時、時には捨て去る覚悟を求められる―――心地良き安住の地を、助けを求めて伸ばされた手をも。
選べない私は、前へ進めず、後にも退けず、立ちすくむ。
もう何年も立ち止まっている。
その事実に気付いていながら、成す術をも見出していながら、微動だに出来ない。
眼前に立ちはだかる分岐点。
時だけは無情にも前へ進む。


ムアンシンにて―――。
窓から覗く空は今日もどんよりと曇っている。
朝食を摂りに隣りの市場へと部屋を出た所で、隣人である欧米人カップルに呼び止められた。
 「フエサイからタイに渡ろうと考えているんだが、ここからシェンコック経由で行こうかルアンナムター経由で行こうか迷っているんだ。」
と言って手に持っていた分厚いガイドブックの地図を開いて私の前に差し出した。
地図の上に置いた人差し指は現地点・ムアンシンを指している。
 「シェンコックへ伸びる道はどう見ても長いのに、ここから3時間、ルアンナムターから伸びる道は短いのに、6時間と書いているの。貴方はどう思う?」
女が私に尋ねた。
ルアンナムターからフエサイへのルートは今でこそ舗装されているものの、2001年当時は悪路中の悪路だった。
乾期で6時間だが、雨季は道がぬかるんで沼と化すため、その倍か、酷い場合は重機が到着するまで車中で一晩を過ごさなければならない。
ラオスを周遊していた当時はまさに雨季の最中の8月。
旅に出る前に収集した情報から、私はシェンコック経由で行くことを決めていた。
 「僕はシェンコック経由で行くよ。地図で見る限りでは長いけど、きっと緩やかなんだと思う。」
そう答えたが、二人はまだ決め兼ねている様子だった。

午前9時、シェンコック行きのソンテウに乗り込む。
曇天の下に広がる水田に沿って国道を暫く走ると、道は二手に分岐する。
左に折れて水田に挟まれた道を進むとルアンナムター、前方に密林の広がる道へと直進すればシェンコックへ辿り着く。シェンコックに続く道
やはりシェンコックへ向かう道が正解だったらしい。
路面は固く安定し、カーブは緩く苦にならない。
途中、酷いぬかるみに足を取られた車が何台も居並び渋滞したが、1時間もかからず抜け出せた。
雨季の北部ラオスでは上出来である。
密林を抜け、やがて民家が道沿いに現れ始めると終点は近い。
ソンテウは小さな村のどん詰まり、メコン川の船着き場で停車し、乗客は皆下ろされた。シェンコックでルアンパバーン以来のメコンと再会。シェンコックのメコン
100メートル程度の川幅を隔てて隣国・ミャンマーと接している。
雨季で増水したメコンだが、川幅が狭くなっても音も立てず静かに流れる。
標高が高いため川面の上に雲がかかり、より神秘的に見せた。

乗客の中に欧米人の夫婦がいた。
泥に足を取られてソンテウから降りた際に話したところオーストラリア出身らしく、長期休暇が貰えなかったから会社を辞めてこの旅に出たと言う。
タイへ旅行に来る夫の両親と落ち合うためにも、明日メコンを下ってフエサイへ行かなければならない。
しかし彼らの持つガイドブックにもこのシェンコックの情報は乏しく、何処に宿があるのか分からない。
とりあえず3人で散策して宿を探すことにした。
シェンコックは歩いて回れる程に小さな町だった。
宿泊施設は2軒しかなく、そのうち彼らは40,000kipのロッジを、私は20,000kipの宿舎を選び、また明日と言って別れた。

ゲストハウス

ロッジ

翌朝、船頭との料金交渉は難航した。
細い船にどデカいエンジンを積んだスピードボートの船頭が言った。
一艘貸し切りなら6,000バーツだと。
 「おかしいわよ、この本では一人500バーツだと書いているのよ。」
 「燃料が高騰してるんだ。そんな値段で行けるか。」
 「だからって1人2,000バーツなんてあんまりよ。500バーツじゃないと乗らないわ。」
 「嫌なら他の客が来るまで待ちな。来るかどうかも分からんが。」
女は強気一辺倒で引き下がろうとしない。
しかし相手も我々には船で行く以外の手段が無いことを知っている。
私は2,000バーツ出してもいいから早く船を出して欲しかったが、そんな事を言って仲違いする訳にもいかない。
そこで夫が口を開いた。
 「せめてもう少し負けてもらえないか?」
私は早く出たい一心で、上の空でそのやり取りを見ていたが、山間にカーブして消えて行くメコンの流れに心を奪われた。
 「Hey, 1人1,200バーツでOKだ。持ってるかい?」
一体どういう交渉をしたのか、6,000バーツが3,600バーツまで値下がった。
彼の妻はまだ不服そうだったが、私はすぐに支払った。

ボートは轟音と共に川面を飛ぶように発進した。
遠目に見ると静かに流れるメコンだが、流れは想像以上に速い。
おまけに水量も半端ではないためボートを揺らす波の力が強く、真正面から波とぶつかる度にボートは宙に跳び、すぐさま川面に打ち付けられる。
下手をすれば舌を噛みかねない。
私はいつ転覆しても良いようにこっそり靴紐を解いておいた。
1時間程走っただろうか、ボートは急に止まった。
川の真ん中で船頭はエンジンを2〜3度空吹かし、再び発進してはまた止まった。
まさかこんな所でエンジントラブルか?と危ぶんだが、船頭はまた何事も無かったようにボートを走らせた。
安堵したのも束の間、船頭はミャンマー側に停泊していた木造の貨物船の脇にボートを着けた。
大声で船主を呼び、顔を出した船主と何事かを話すと、彼は顔を引っ込めた。
そして船頭は言った。
 「エンジンの調子が悪い。俺は一旦戻るから、暫くここに居てくれ。」
 「暫くって、どれぐらい?」
夫が尋ねたが、船頭は焦ることもなく答えた。
 「I don't know.」
そう言って私らは何処の誰とも得体の知れないボートピープルに身柄を預けられることになった。
もしかして嵌められたのか?
一同呆然としながら、Uターンして帰って行くスピードボートを見送った。
出発前に相当揉めたこともあり、本当にまた戻って来るのかという不安が過ぎる。
己の選んだ道の顛末に、脱力し切って嗤う気力も起こらない。
静寂が間を埋める。
鳥の声すら聞こえない。
時折り木造船が音を立てて軋む。
妻がぽつりと呟いた。
 「Bye-bye, 1,000 Bahts.」
彼女の声は川面に落ちて空しく消えた。


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July 28, 2012

A Midsummer Night's Dream @Muang Sing


節電の夏始まる。
計画停電は果たして在るのか。
エレキテルの発明以来、我々は電力によって数多のアビリティを獲得して来た。
夜は昼の様になり、遠隔の友と顔を合わせて交信出来る。
電力こそ文明を拓く力。
国威を示さんとラオスの紙幣の裏には水力発電用のダムが描かれる。
しかし我々は力を獲得したつもりでいて、実は捕えられたのは我々なのではないかと時に疑わしくなる。
人は何かを所有することで、逆に囚われ束縛される。
言わば己が首を己れで絞めるが如し。
我々は気付かなければならない、何も持たぬ贅沢に、不便であることの自由に。
計画停電ならぬ計画「通電」であったムアンシンを懐かしむ。


午前9時、ルアンナムターを出発したソンテウは両手に水田の広がる道を走った。ソンテウ
荷台を客席に改造した2トントラックには朝市で買い物を済ませた乗客と荷物を満載している。
ムアンシンへ向かうこのバスの中では、外国人である私を特に珍しく見る目は無かった。

2001年8月、ラオスの首都ヴィエンチャンから国道13号線に沿ってバンビエン、ルアンパバーンと1週間をかけて回った私は、8日目に訪れたルアンナムターで初めて計画通電を知り、衝撃を受けた。
通電時間は夕方6時から9時までの3時間。
その時間以外はテレビはおろか室内の照明も使えない。
6時になると住宅街の其処此処から収録された嘘くさい笑い声が漏れ、9時が過ぎた途端に町中のブレーカーが落ちたように静まり返る。
街灯も点かず、街は暗闇と化す。
聞いてはいたものの、いざその最中に身を置くとやはり衝撃的であり、如何に自分が電力に依存していたかと思い知らされた。
とは言え2日目には慣れるもので、ムアンシンの通電時間がさらに短い2時間と聞いたところで、特に不安になることもなかった。

ムアンシンは非常に小さな町だった。
中国国境へと向かう国道沿いとその周辺に商店や民家が点在している。
バスはその中心に位置する市場を終点としていた。
雨傘を差す程でもない微妙な小雨続きの天候に、不快にぬかるんだ市場の地面を踏みながら国道に出る。
辺境の町だけにどの宿も程度はあまり変わらないと見え、安直に市場の隣りのゲストハウスにチェックインした。バンガロー(?)
竹を編んで作られた簡素なバンガロータイプ。
一棟2部屋で構成され、私の通された部屋の隣りは欧米人カップルだった。
とりあえず「Hi.」と挨拶を交わした。

町内を散策に出ると、アカ族の衣装を身に纏った老婆が数人、みやげ物の様な手工芸品を売り回っていた。
一人が私に話しかけて来たのでカゴの中を覗いていると、他の売り子も一斉に私の周りに集合し、我も我もとカゴを見せてくる。
一人から黒い布に青い糸で木の実を幾つも縫いつけたリストバンドを買うと、他の老婆も次々に同じ物を差し出して来る。
断ると、
 「アイツのは買ったのに私のは買わないなんてズルイじゃないか!」
とでも言っているように怒り出す。
それでも断り続けていると、終いには肩に掛けていたカバンから乾燥させた大麻を出して来る始末。
多くの旅人がこのムアンシンを好んでいると聞くので来てみたが、私には余り好きになれなかった。うろつく老婆

宿に戻ると、私のバンガローの隣りの棟にひと組のカップルがウッドデッキで話していた。
一人は短髪で、見るからに日本男児的な黄色人種。
もう一人は褐色の肌の小顔美人。
インド人か?…とすると隣りの男は日本人じゃない?
そんなことを考えながらバンガローへ続く道を歩いて行くと、彼らも会話を止めて接近する私を凝視して来た。
互いの正体を探り合う微妙な距離と気まずい沈黙。
口火を切ったのは褐色の女だった。
 「アーユージャパニーズ?」
日本人特有のベタな発音に、どこがインド人なのかと自分の目の節穴さ加減に呆れてしまった。
彼らは彼らで、私が日本人とは思えなかったと言う。
その可笑しさにまずは3人で笑い合った。

遅い午睡の後、夕方、突然部屋の照明が明るくなった。
外は既に暗く、通りに出ると彼方此方からテレビの笑い声が聞こえて来る。
遅れて出て来た隣りの日本人と合流して近所の中華料理屋に入ると、各国からやって来たバックパッカー達がテレビでサッカーを観ながらビールを飲んでいた。
我々3人もその中に入り、食べて飲んで笑った。
国籍に囚われず騒ぐ楽しい宴に、突然の停電が水を差す。
通電時間が終わったのだ。
あっという間の気ままな宴会が開けて外に出ると、真っ暗な道端で露天商が懐中電灯をぶら下げて商いを続けている。
上空では厚い雨雲の切れ間から粒の大きな星が幾つか地上の生活を覗いている。
露店でビールを買って二人の部屋にお邪魔した。
ローソクに火を灯し、3人で囲んで旅の話に花を咲かせる。
男が鞄から小さな紙と煙草の葉を取り出した。
巻きタバコか。
紙と葉を別々に買うと安いんだよな、と思っていたが、煙草にしては匂いがなんだか甘い。
 「吸ってみる?」
 「馬鹿、勧めるなよ。」
と男が制したが、女から手渡された1本を口に咥えながらローソクの火に近付けて息を吸い込んだ。
メンソールのような、植物系の香り。
 「煙草は合法なのにコッチは非合法っておかしいと思わない?煙草だって中毒性あるしカラダにも悪いんだから、こっちの方がむしろ健康的じゃない。」
話を聞きながらもうひと口吸い込んでみたが、咽せ返してしまった。
煙草の吸えない私には、それでさえも猫に小判なのかもしれない。
時々激しく揺れるローソクの不安定な火は、ただそれだけで妖しくも心地良く扇情させる。
夜の静寂に澄む虫の声、甘い香りとアルコール。
とろけるような辺境の夜。
暗闇に包まれて人は蠢く。
真なる夜を知った。


後日談
メコン川を渡ってタイに入国した所で、今からまさにラオスへ渡るイスラエル人カップルと出会った。
 「ラオスはどうだった?」 と聞かれ、
 「電気が2時間しか使えない。」 と答えると、
 「ファンタスティック!」 と笑顔で返された。
停電万歳。

テレビに群がる子供ら


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October 26, 2010

Discommunication.


宇宙人との会話は成立するのか―――。
深夜のマクドナルドで友人とそんな話になった。
我々地球人は基本的に言語を口腔から発して会話する。
一言で片付かない複雑な想いを持っていても、発する場所は口腔の一つしか無いものだから、人は手振りを大きくしたり声高に話したりして言葉を補い、終いには怒るか泣くかなど感情を昂ぶらせ、通じない相手にじれったさを覚えて煩わされる。
広大な宇宙の中には地球人よりも遥かに進化した生物が存在すると考えられている。
彼らは音声ではなく、目から発する光で会話するかもしれない。
その光は一瞬の内に多くのデータ(想い)を発信することが出来る。
そんな宇宙人を目の前にした時、我々アナログな地球人は彼らと会話を成立させることが出来るのだろうか。
彼らからすれば進化の遅い地球人は野を走る獣と変わらないのである。
旅の間の言葉はどうしているのかとよく尋ねられる。
英語の通じない所も多い。
それでも伝えたい想いと理解に努める優しさが相互にある限り、何とかなる。
地球人同士で良かったと安堵する限りである。


ポンサーリーは中国系プーノイ族が人口の大半を占める街である。
街中で交わされる言葉もプーノイ語であり、聞こえる響きはタイ語に近いラオ語とは異なり、中国語に酷似している。
ポンサーリーでの主食は主に米粉を練った麺であり、バゲットも餅米も見かけない。
ここはもはやラオスにあってラオスではない。

ポンサーリー3日目の朝、早くも帰途に就く時を迎えた。
片道三日を要するため、7日間の休暇では丸一日滞在するのが限界だった。
バスターミナルに行くと、ウドムサイ行きのバスの隣りに思いがけずヴィエンチャン行きのバスが停まっていた。
これに乗れば途中で1泊することもなくルアンパバーンへ直接行くことが出来る。
乗車券売り場の窓口に聞くと、ルアンパバーンまで110,000kip、8時の出発。
切符は車内で買ってくれと言う。
私はこのヴィエンチャン行きのバスに乗り込み、ウドムサイ行きのバスを見送った。

出発までの30分を同じ車内に乗り合わせた数人の客と待つ。
―――が、定刻になっても運転手は現れない。
やがて車外で走り回っていた助手と思われる男がバスに乗り込み乗客に向かって何かを話すと、他の客は何も言わずにバスを降りていった。
訳が分からず、彼にタイ語で尋ねてみた。
 「アライナ?(何だ?)」
通じたのかどうか判らないが、彼が何を答えても私には理解出来る筈もなかった。
それを見て取った男は、ジェスチャーを始めた。
まずはハンドルを回す仕草―――運転手のことだろう。
次にバスターミナルの隣りのゲストハウスを指差し、両手を顔の横で重ねて目を瞑って見せた。
つまり、運転手がまだゲストハウスで寝ていると言うのか?
ならば何時に出発するのか?
 「キーモンチャパイ?(何時に出発する?)」
恐らく通じるだろうと思い、もう一度タイ語で尋ねてみた。
 「ムンウー、パーディエン」
【パーディエン】8時。【ムンウー】―――解らない。
 「プルンニーパーディエン?(明日の8時か?)」
 「ムンウー。ムンウーパーディエン。」
時間だけは解るのだが、大事な部分がさっぱり解らない。
もしかして今夜の8時なのか?
ノートを出して時計の絵を描いて見せた。
8時を示した時計と太陽。
そして矢印を書いて、次に8時を示した時計と三日月と星を描いた。
 「ムンウーパーディエン、ボー?」
次第に複数の男らに囲まれていたが、みな首を傾げた。
さらに矢印を書き、再び朝日と8時の時計を描いて見せる。
しかしそれでも皆目解らないらしい。
どうも絵の意味が理解できないようだ。
最後の頼みと思ってガイドブックを開いてみた。
私の持っているものは2001〜2002年版と古いものだったが、巻末の頁を繰っていくと、見付けた。

 【ムンウー】明日

そうだ!これだ!と周りの男たちも目を輝かせて喜んだ。
苦労の末に漸く理解し合えた喜びに助手と私は互いに握手を交わし、他の男たちも晴れやかな表情で解散して行った。
私には絶望的な宣告を突き付けられただけだとは、さすがに誰も解らなかったようだ。


言語が違うからなどと恐れることは何も無い。
むしろ同じ言語を話しているからこそ理解し合えないことも多い。
言葉尻ばかりを捉え、言葉の裏に隠れた真意を読み解く努力を怠っていないか。
言葉の通じない者同士だからこそ相手の真意を知ろうと必死に努める。
諦めて突き放さず、理解し合えるまで我慢強く対話を重ねる。
その努力こそあれば、変わる結果も多いに違いない。


因みに翌日、贖罪のつもりかバスは無茶なスピードで一気に山を駆け下り、
なんとか0時を回る前にはルアンパバーンに辿り着けた。
信じてみるものだ。

(今日の写真:プーノイ族の姉妹。確かに中国人ぽい。)
20100502_105

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September 13, 2010

ポンサーリー


それが日本隋一の「酷道」であると知ったのは随分後のことだった。
奈良県十津川温泉郷と和歌山県龍神温泉を結ぶ国道425号線。
ナビゲーションの示すままにその道に踏み入れると、そこはガードレールも十分に無い急カーブの続く細道であり、それでいて一方通行などではない。
アスファルト舗装を僅かでも踏み外すと、崖の下に真逆さまに転落する。
十津川温泉湯巡りを日帰りで満喫した後だったため、時は既に夕刻。
助手席に座る妻と共に死を意識した。
驚くべきことに、この「酷道」沿いにも人の住む集落がある。
何を好き好んでこんな不便極まりない場所に居を構えるのか。
こんな時、兄は決まって言うのだった―――平家の残党の村だと。
無論冗談なのだろうが、妙に真面目くさった顔で言うものだから、幼少の私は簡単に信じたものだった。
ならばポンサーリーもまた平家の残党の村に違いない。


暗闇に包まれた山道を雨に打たれながらひたすら上る。
上って上って上り詰め、雨雲を突き抜けると、大粒の星を無数に散りばめた夜空が頭上に拡がった。
標高1,400メートルの山上に拓かれたポンサーリー。
街は雨雲よりも高く、空に近い。
バスターミナルに1台だけ停まっていた市内行きのトゥクトゥクに促されるままに乗車すると、何も言うまでもなく自動的に「ヴィパポーンホテル」の前で降ろされた。
ホットシャワー付きで80,000kip。
同じバスに乗り合わせた外国人バックパッカーらは高いと言って他の宿を探しに出てしまったが、短期旅行で日本人の私にすれば、疲れ切った身体にホットシャワーは格別に魅力的だった。
80,000kipは日本円に換算すれば900円弱でしかない。

翌朝、展望台に上って街の概形を確認した。
街は二つの山頂に跨って拓かれた瓢箪型で、二つの区画の間を尾根伝いの道が結んでいる。
どちらの区画にも大きな施設があり、通常なら寺院であると思われるのだが、近寄ってみると、どちらも共産党の施設なのだった。
入口には自動小銃を手にした警備員が立ち、私が近寄ると、「入るな」と言って制止した。
1975年、ヴィエンチャン陥落によってベトナム戦争が終結し、共産化と共に王制が廃止されたラオスだが、ここまで徹底した共産色を見せる街は初めて見た。
辺境ほど政治色を色濃くアピールするものなのだろうか。
共産党の守護のお陰か、街中は基本的にコンクリート造りの家屋が多く、静かで慎ましい生活が営まれているのだが、バイクを借りてひと度街を出ると、今にも崩れそうなほど粗末な木造の家屋が山道沿いに並ぶ。
どの家も前で茣蓙を敷き、茶葉を干している。
茶は中国雲南省に隣接するポンサーリーの名産品でもある。
山の斜面に植えられた茶畑から女性達が茶葉を摘んだ籠を頭から提げ、各々の集落に向けて裸足で坂を上っていく。
中には子供も一人前に籠を提げている。
その傍らを山上の住人が車やバイクで素通りして行く。
ポンサーリーでも茶葉を買うと結構値が張る。
にも関わらず茶農家のこの貧しさを見ると、仲買人の暴利は一体何処に消えているのだろうか。
街に戻りバイクを返したところで呆気に取られる光景を目の当たりにした。
老婆が愛犬を伴ってゴミ捨て場で何かを探しているようだった。
様子を見ていると、彼女はゴミ袋の中から残飯を見つけ、愛犬を呼び、犬と共に食べ始めたのだった。
閑静な街中でゴミ袋を漁る彼女に目を奪われた私は、暫く動けなかった。

共産主義とは何なのだろうか。
主義や思想とは人の幸福のために生まれたのではないのか。
この世に王国など無い。
この世に王国など無い。
ならば平家の落武者よろしく人里離れた寒村で息を潜ませ暮らしながら待ち焦がそうか。
約束の地に向けて荒野へ連れ出すモーゼの如き羊飼いを。
王国の来たるその日まで。


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July 31, 2010

ココデハナイドコカ


久し振りに流行りの新刊を買った。
村上春樹の『1Q84』全3巻。
青豆という一風変わった名前の女が“天のお方さま”への祈りを口ずさむ―――「王国をもたらせたまえ」と。
新約聖書『ヨハネの黙示録』にて預言されたキリストの再臨と千年王国の建立。
その王国は栄光に輝く、完全な世界となる。
C.イーストウッド監督による映画『パーフェクトワールド』。
刑務所を脱獄したブッチ=ヘインズが少年フィリップと共に盗難車を走らせたのは、幼少の頃に別れた父がいるかもしれないアラスカを目指してのことだった。
父からたった一度だけ届いたアラスカの絵葉書は、ブッチにとって胸を焦がす理想郷として映ったに違いない。
しかし道は閉ざされ、敢え無く警察の凶弾に倒れることになる。
偶然か必然か、青豆とフィリップの親は同じ宗教の熱心な信者であった。
寝る子は育つとも言うが、子供らは夢を抱いて成長する。
たとえ肉親であっても子供から夢を奪う権利など無い。
しかしそんな主張など所詮は理想論であり、現実には在り得ないネバーランドなのか。
理想郷を【Erehwon】と皮肉る様に、そんなものは【Nowhere】何処にもありはしない。
我々はそう認識しながらも、心の奥底ではその存在を、その来臨を、強く待ち望んでいる。
我々は皆ただ漠然と、此処ではない何処かを夢見て生きている。
待ち切れない私はそうして旅に出る―――在る筈のない「王国」を求めて。


朝7時、晴れとも曇りとも取れない煮え切らない空の下、70リットルのバックパックを担ぎながらやたら広い閑散とした道を歩く。
北部ラオスの交通の要衝=ウドムサイ。
昨日ハノイから国際線でルアンパバーンに降り立った後、同日の内にこのウドムサイまでバスを乗り継いだ。
この町で一晩を過ごし、また今日もバスで駆ける―――山上の町・ポンサーリーへ。
そこに何が在るのか分からない。
ただ何故だか初めてラオスを訪れて以来その町の地を踏みたいと願いつつも、機会に恵まれなかったのだった。

バスターミナルとは名ばかりの粗末なトタン屋根の下に、使い古されたバスが頭を屋根に突っ込むような形で並んでいる。
何処かの国で廃車となって格安で払い下げられたようなバスや、少年野球チームが遠征試合に使っていそうなマイクロバス、荷台にベンチを据え付けただけのトラックや軽トラ、ピックアップ…。
バスに乗る客を狙って、物売りが商品をカゴに目一杯乗せてウロウロしている。
1日1便のポンサーリー行きのバスは、出発30分前で既に荷物も人も満杯だった。
バスの天井の荷台で雨除けのビニールシートを二人がかりで張っている男らに話しかけた。
 「ポンサーリーに行きたいんだけど。」
そう言って背中のバックパックを指差すと、
 「もう無理だ。中に持って入ってくれ。」
そう言われて車内に入ってみると、通路は荷物で埋もれていた。
運賃を徴収する男に85,000kipを支払い、荷物を踏まないように座席の肘掛けから肘掛けへと足を運ぶ。
最後列から3列目の通路側。
バックパックは泣く泣く土埃に塗れた通路に置いた。
座席を確保してから朝食を買うつもりだったのだが容易く外に出られる状態ではなく、窓から顔を出して売り子を呼ぶことにした。
 「カオラーム!カオラーム!」
トタン屋根の下にいたカオラム売りを呼んだつもりだったのだが、私の声を聞いた女が5人、我先にと声を上げながら全速力で駆け寄ってきた。
仕方なく公平に、先着した女からカオラムを2本、飲み物も持っていた女から水とオレンジジュースを買った。

低いエンジン音が唸り、定刻を待たずにバスはゆっくりと出発した。
まずはバスターミナル傍のガソリンスタンドで給油する。
車内ではその間に前から順にビニール袋が配られた。
2時間ほど走るとバスは凹凸とカーブの激しい未舗装の山道に踏み入れた。
激しく砂煙を巻き上げながら山肌に沿って右へ左へと器用に曲がる。
時々大の男が尻から宙に浮いては打ち付けられる。
見ると周囲では早くも数人がビニール袋を口元にあてがって顔を突っ伏している。
もちろん車体にも影響が大きいのか、補修のために何度も途中で止まっては30分〜1時間の休憩となる。
その度に男も女も道路脇の草むらへと消えて行って用を足した。

ラオスの山道にトンネルなどという洒落たものは無い。
ひたすら山を上っては下りて行く。
バスは山岳民族の集落を幾つも抜けた。
ある集落は山の天辺にあり、ある集落は谷底にあった。
野焼きの季節だったのか、山は幾つも燃えていた。
バスは黒焦げの山や、未だ燻って煙の立ち込める山に沿った道をも走る。
奈良県の吉野から和歌山県の本宮へ、修行中の山伏が今も駆け抜ける大峯奥駆道を思い起こす。
ポンサーリーへの道程は険しい修行さながらである。

ウドムサイを出発してから約10時間後、比較的大きな町に到着した。
日もとっぷりと暮れ、東の空では既に夜が始まっていた。
乗客もほとんど下りて行く。
 「ここがポンサーリーか?」
手近にいた乗客に訊いてみた。
間違いないだろうと思っていたのだが、
 「違う。ポンサーリーはまだ先だ。」
ということだった。

再び出発したバスはひたすら坂を上り始めた。
町を出る際に降り始めた雨が次第に強さを増していく。
街灯などある筈もない暗い山道を、運転手はヘッドライトと勘だけを頼りに飛ばして走る。
蛇行する道に沿って右へ左へと曲がりながら、上る、上る、念願の山上の町へ向けて。
―――王国をもたらせたまえ。
青豆の祈りを思い出す。
王国の来臨は何時になるのか、多くの者が待ち望みながら、見果てぬままに死んで行く。
来ないなら、いっそこちらから出向くまでだ。
たとえそれが死の淵の彼岸に在ろうと。

横殴りの雨に打たれながら、上る、上る。
闇の向こうに在る王国を信じて。


(今日の写真:エンスト中 @ラオス)
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May 31, 2010

TAXI 3


旅慣れたと言えば聞こえは良いが、私のそれは、泥沼に片足を取られ半ば沈み掛けているに過ぎない。

安宿、とりわけドミトリーに投宿すると、最後に帰国したのがいつかも容易に思い出せない旅人が稀にいる。
旅人という不安定でありながら何処にも所属しない居心地の良さに安住し、旅することに身勝手な大義名分を探しながらいつまでもモラトリアムに耽り続けることを、我々は「沈没」と呼ぶ。
そんな「沈没」した彼らの世界に、私も身体半分を埋ずめかけている。
遠足の日に限って早起きするような人間は健全な精神の持ち主と言えよう。
私にとって旅は今や日常の延長でしかなく、ネクタイを締めてビジネス街を歩いている時や、家でテレビを観ながらぼんやりと過ごしている時と何ら変わらない。
つい寝坊をしてしまうのもいつも通りのことなのだ。


2001年に初めてラオスを周遊して以来、地図を拡げて見る度に、最北端にあるポンサーリーという町に行ってみたいと兼ねてから願っていた。
隣接する中国やベトナムに喰い込むように突出した地形の中にあるその町は、雲南省にかけて標高を上げていく北部ラオスの山間、標高1,400メートルに位置する。
何があるのかは分からない。
何も無いのかもしれない。
ただ純粋にその町の土を踏んでみたいと強く願い続けたこの9年間の想いを、この黄金週間に実現する機会を得た。

日本からポンサーリーへは片道3日を要する。
日本からまずはベトナムのハノイで1泊したのち翌日にラオスの古都・ルアンパバーンへ飛び、空港からバスターミナルへ直行して同日のうちにウドムサイまで移動してまた1泊。
そしてまた翌日、約10時間かけてバスでポンサーリーにようやく到着する。
移動に次ぐ移動。
一刻の無駄も許されない。
にも拘わらず、ハノイで朝を迎えた時には、既にルアンパバーン行きのチェックインが始まっている時間だった。
ハノイ発ルアンパバーン行きVN869便は9時のフライト。
チェックインはその2時間前の7時〜1時間前の8時まで。
そして私がホテルで目を醒ましたのは午前7時5分だった。
飛び起きた私は顔も洗わず荷物をまとめてチェックアウトを済ませ、タクシーに飛び乗った。

 「国際空港まで。急いでくれ。」
とは言え、空港まで35キロ。約1時間はかかる道のり。
9年間の希望をこんな中途半端な所で潰してしまう訳にはいかない。
私は日本から持って来た携帯電話でハノイ市内にあるベトナム航空へ電話をかけた。
まずは音声ガイダンスがベトナム語で流れ、次いで英語が流れる。
フライトの情報は1と#、予約は2と#、リコンファームは…と順に進み、私は「その他」の4と#を押した。
そして保留の音楽が流れ出す。
『禁じられた遊び』。
哀愁を帯びたメロディーに苛立ちも加速する。
電話が係員に繋がるまで実に2分も待たされた。
 「ハロー?May I help you ?」
 「Yes... 今日のルアンパバーン行きを予約しているんですが。」
 「リコンファームですね?」
 「No! 今日の9時のフライトを予約してるんですが、遅れそうなんです。今空港へ向かう途中なんです。チェックインカウンターは何時に閉じますか?」
 「Just a moment.」
そしてまた流れる『禁じられた遊び』。
8時に閉まることは私でも分かっているのに、話す順番を間違えてしまった。
 「ハロー?8時に閉まります。」
 「私はたぶん8時に間に合いません。延長してもらえませんか?」
 「Ah.. Just a moment, please.」
そして再度あのメロディーが。
熱帯の日差しは車内でも窓を通して肌に刺すように降り注ぐ。
暑いからか焦燥からか、じわりと汗が滲み出す。
 「ハロー?ではチェックインカウンターに直接電話をかけて下さい。電話は04-……」
すかさずメモを取り、すぐにその電話番号に掛けた。
が、電話はコール音すら鳴らずに切れた。
三度かけたが全く繋がらない。
仕方なくもう一度オフィスに電話をかけた。
また音声ガイダンスからのやり直しに腹が立つ。
 「ハロー?May I help you ?」
先とは違う係員のため、また一から事情を説明する。
 「それではカウンターの電話番号を申し上げます。」
 「いや、さっき聞いて掛けたけど繋がらないんだ。アンタからカウンターに伝えてもらえないか?」
 「分かりました。それでは航空券番号を教えてください。」
期待を胸に抱きながら読み上げた。
 「Hold on, please.」
これで大丈夫だろうと胸を撫で下ろしながら『禁じられた遊び』を聞き流す。
 「ハロー? Sorry, I cannot help you.」
絶望の最終通告。
この時点で既に7時55分。
後は空港のカウンターでゴネるしかない。
8時10分、空港に到着。
頑張ってくれたタクシーの運転手にチップを弾み、腹を括ってカウンターへ向かった。

…が、カウンターはまだまだ余裕で開いていた。
それどころか同じくルアンパバーンへ向かう欧米人旅行者が私の後ろにも並び出す始末。
フライトの時刻が変更になった訳でもない。
どっと疲労が押し寄せ、緊張が解けたのか汗が急に流れ出した。

ファイナルコールを呼ぶボーディングゲートへ、いざ向かう。

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November 07, 2009

Escape to Laos.


極寒のオホーツク海。
吹き荒ぶ雪風、うねる海面、叩きつける大波。
乗員はその過酷な労働環境に見合わぬ低賃金で酷使され、よもや人権などというものは無く、その描写はローマ帝国時代に奴隷や罪人を詰め込んだガレー船を彷彿させる程に劣悪であった。
プロレタリア文学の旗手・小林多喜二の『蟹工船』を読んだ。
大時化の中を無謀にも漁に出された川崎船は、風に曝され波に揉まれ、ソ連領である樺太に漂着してしまう。
ロシア人らに手厚く保護された彼らは、やがて母船に戻り、その地の教えを乗員の間に拡めた。
ソ連、そこは資本家ではなく労働者こそ主人公たれる夢の国だった…。


先月の盆休み、追い立てられる毎日に堪り兼ね、ほぼ衝動的に航空券を購入した。
またもやバンコク経由ルアンパバーンへ。
今年は9月にシルバーウィークと呼ばれる連休が控えている所為か、8月10日になってもまだ盆休み中の早割対象の席が空いていた。
考えていることは皆同じなのか、9月の連休は行先に関係なく何処も満席らしい。

ルアンパバーンへは5度目の訪問になる。
今回は飽くまでもリゾートに来たのだからと、バンコク空港内のラウンジから少々値の張る小洒落たゲストハウスをインターネットで予約した。
当日の空室を埋めるため、40%オフでの提供。
3年前に訪れた時はゲストハウスの建築ラッシュを迎えていた。
町の其処此処で大工のトンカン、トンカンと叩く音が響いていた。
そこに来てリーマンショックに端を発する世界的な経済恐慌。
旅行者は激減し、雨後の筍のように建ち上がった多くのゲストハウスは日の目を見ぬ間にバタバタと差押えの憂き目に遭ったと人づてに聞いた。
とは言えそこはラオス。
夜逃げだとかホームレスだとか、道端に座り込んで空缶を前に置く姿はあまり想像し難い。
山に入れば簡単に自給自足で暮らしていけそうな気さえする。

翌朝、思い立ってパーク・ウー洞窟へ行ってみることにした。
メコン川沿いに切り立った断崖に穿たれた洞窟に何万体もの仏像が祀られており、郊外の観光地として知られている。
本音を言えば別にパーク・ウーには大して興味はなかった。
ただ船に乗ってメコンの流れに抱かれたかったのだった。
午前中にワット・シェントンの船着き場で交渉し、船が出払っていたため予約として半額を前金として支払った。
宿に戻って転寝に興じ、昼食、スパでマッサージを受け、贅沢に時間と金を費やした後、再び船着き場へ。

10人程度は乗れる長細いボートを一人でチャーターし、メコンへと漕ぎ出す。
空から見下ろせば大河に浮かぶその様は、濁流に流される笹舟の様にも見えたかもしれない。
メコンは相変わらず静寂に満ち、神秘的だった。
メコンの風、川面の匂い、時折手を川面に浸して直に触れてみる。
あぁ、これだ…と感激に胸を震わせた。
ウィスキーで喉を潤した際の余韻を彷彿とさせる程に、意識を遠くに旅立たせ、より深く沈めてくれる。
まるでメコンに酔い痴れる様だった。

約1時間半の船旅を経て、パーク・ウーに到着する。
洞窟へと向かう参道を進むと、子供らがワラワラとやって来て取り囲まれた。
それぞれ手に菓子やら玩具やらを持ち、「これ買ってよ。」としつこく付きまとう。
情に負けて菓子を買ってやると、後から追いかけて来て、お腹が空いたというジェスチャーをして見せた。
つまり今売った菓子を食べさせてくれと言うのだ。
もはや神は死に、経済という怪物がこの世を統べているのか。
メコンの豊かな水に恵まれたこの地も所詮人の世でしかないと悟る。
もはや逃げ道は無いのだと。


戦前、共産主義思想に憧れソ連に亡命する日本人が多く存在した。
共産主義の敗因は何だったのか。
思想そのものが悪かったとは思わない。
マルクスにしろエンゲルスにしろ、大衆の愚かさを知らなかったのだろうか?
思想は理性により構築されるものだが、一般大衆とは理性よりも感情が勝る人種である。
人間の愚かさと欲深さこそ国家腐敗に至る要因だったのだ。
愚は罪なり。

しかしそれでも尚飽きることなく全人類が豊かになれればと願いながら荒野へと導く羊飼いをただ待つだけの私は、やはり愚なる大衆の一人なのに違いない。

scott_street63 at 16:34|PermalinkComments(4)TrackBack(0)

February 29, 2008

One-way Trip.



バンコクで帰りの航空券を捨てた時の爽快感を今もよく思い出す。
いつ帰国するのかは自分次第。
自由を手にした瞬間だった。

もしも人生に後戻りが許されるなら、
自分は今、何処で、何をしているだろうか。

法善寺横丁にある小さなバー「タロー」にて、
父がキープで置いてあるサントリー・ロイヤルを兄と2人で飲みながら、
家で飲むよりも外で飲む酒が美味いのは何故かという話になった。
マスターは言った。
適度な緊張感こそ酒を美味しくするエッセンスなのだと。

己の生命は誰の為にあるのだろうか。
己の人生は誰の為にあるのか。
己の為とする回答は余りに独善的で傲慢極まりない。
そんな人生はマスターペーションに変わりない。
与えられた自由を履き違えてはいけない。
適度な制約こそ、自由を自由たらしめるエッセンスに違いない。
制約のない自由など、ただだらしがないだけだ。

我々には、もう後戻りは許されないのか。

2001年春、私は会社を辞め、貯めた金で旅に出た。
格安航空券でタイに入国し、帰りの航空券を捨ててタイとラオスを周遊した。
再び戻ったバンコクのカオサンでオーストラリア行きの片道航空券を購入し、シドニーへ飛んだ。
そこから3日3晩バスに乗り続け、当時ワーキングホリデーに出ていたカノジョに会うためにケアンズへ向かった。
ケアンズで1ヵ月ほど過ごしたのち帰国を決意し、
成田までの片道航空券でケアンズを発ったのは9月10日の深夜のことだった。

グアム経由成田行き、コンチネンタル航空。
2001年9月11日未明、米国領グアムに到着。
折しも大型台風が東京を襲い、成田行きの飛行機は出発を見合わせることとなった。
ボーディングゲートに表示している待ち時間は、3時間、4時間、5時間…と延び続け、
最終的に10時間まで表示されたものの、結局8時間遅れで搭乗を開始した。

大阪出身の私が成田に向かったのは東京で友人と会う約束をしていたからだったが、
飛行機の遅延のため誰とも会うことが出来ないまま、最終の新幹線にて帰阪。
大阪駅から自宅まで歩いていると、カノジョから国際電話がかかってきた。
「無事に着いた!?今、ニューヨークが…!!」
21世紀の世界を方向付けた瞬間だった。

我々はどこまで愚かなのだろうか。

アダムとエバはエデンで何不自由ない生活を約束されていた。
彼らは死からも守られ、自由だった。
ただ一つ、エデンにある1本の樹の実だけは食べてはいけないという制約を除いて。
結果として、その制約を破ったために彼らはエデンから追放され、
産みの苦しみと死の苦しみに束縛されることとなった。

何かを得る為には、何らかの代償を支払わなければならない。
生を享受する為には、死でもって支払わなければならない。
我々の生命は確実に死に向かって滑落している。
後戻りはできない。

世界は、どこまで滑落して行くのだろうか。
後戻りはできない。

ならば、新たな一歩を前に踏み出すしかない。

己の生命を他者のために費やしたならば、その生命は多くの者に受け継がれる。
たとえ非力であっても、たった一枚の葉の働きが大樹に栄養を提供しているように、
無意味な働きなど無い。
生命の大樹を支える一葉のごとく、使命を果たし終えるその日まで生きて行けたなら、
それに勝る幸福などあり得ない。

振り返ることの許されない旅路に、新たな一歩を。


(今日の写真:「カゥミンクワンユームァンビァンカム」くん at ルアンパバーン/ラオス)

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October 30, 2007

The Road.


妻は言う、「意志在る所に道は開ける」と。
しかし私は思う。
その道の先に何があるというのか。

人は皆オギャーと生まれたその瞬間から死への旅路を一途に歩む。
死が不可避である真実を知識として持ち合わせながら、それでも人は懸命に生きる。
愚かな現実逃避だろうか?
その生に意味はあるのだろうか?
たとえ行き着く先が死であろうとも、何人たりともその光景を見て持ち帰った者はいない。
人は道の先に在る光景を見んとして、知らず生きているのではないだろうか。
見えざる明日を希望として歩を前に進める。
道が続く限り人はその旅に希望を抱き続けられるのかもしれない。
生への希望の前では、死への絶望など儚く弱い。


午前7時、バスターミナルとは名ばかりの原っぱにマイクロバスやトラックが集結する。
せき寂の町ルアンナムターも、この時ばかりは活気を帯びる。
バスターミナルの前の市場は人で賑わい、売る者も買う者も声を張り上げる。
バスターミナルでは運転手が行き先を大声で告げまわって客を集めている。
私は朝食にオレンジジュースと水、そして香ばしいフランスパンの練乳サンドを市場で買ってモンラー行きの国際バスに乗り込んだ。

モンラーは中国雲南省の南端にある西双版納(シーシャンバンナ)タイ族自治州の一都市。
ラオス北部から中国へと抜ける旅路。
陸路で国境を越える―――今までの旅で国境を越えるなど一度や二度ならず経験しているが、海に囲まれた日本人としては、何度経験しても期待に胸を高鳴らせずにはいられない。
島国と違い、道は国境を越えて何処までも続く。
大陸で生まれ育った人間のスケールの大きさを思い知らされる。

ルアンナムターを出たバスは町を出ると水田に挟まれた道を東へと真っ直ぐに突き抜け、途中の三叉路を北に折れて山道を上った。
中国のODAによるものなのか、山間を走る道路は意外にもしっかりと舗装されており、バスターミナルを出て小一時間で我々は出国ポイントであるボーテンに難なく到着した。

バスの乗客は皆いちど降り、各々パスポートを持って道の脇にある事務所へ出国手続きを受ける。
少し離れた所に、山深い景観を全く度外視したパステルカラーのマンション風の建物が2棟建っていた。
余りの趣味の悪さに目を離さずにいられない。

全員が揃ったところでバスはどちらの国にも属さないグリーンベルトを走る。
その間にもパステルカラーの不自然な建物は其処此処に見受けられ、それは中国の入国ポイントであるモーハンで極められた。
もはやそこは浦安にあるネズミの王国であるかのようなお伽の国。
「白雪姫」の7人の小人よろしく、ピンクや水色にペイントされた店から両替商が出て来て旅人を取り囲む。
赤貧の国ラオスとの貧富の差を見せつけ国威を表現しようとの魂胆なのか、異様な光景に目眩を覚えずにいられない。

入国を済ませ、再びバスに乗ってモンラーを目指す。
モーハンを越えるともう人工的な色の建物は現れない。
山間の細い道の脇に所々、瓦屋根の古い家屋とのどかな日常が見受けられた。
慎ましい暮らしぶりに心洗われるのも束の間、バスはラオスよりも酷い凹凸の激しい砂利道にぶつかった。
外を見ると、建設中の大きな道路をまさに横切ろうとしているのであった。
バスの走る山道は何度も蛇行してはしばしばこの道路に差し掛かり、その度に我々は悪路を強いられた。
つまりこの建設中の道は、自然の地形などいっさい無視し、山を削り谷を埋め、ひたすら直進しているのだ。
この道こそは深センから雲南省、ラオスを突き抜けバンコクへと繋がる「南北回廊」と呼ばれる国際道路。
日本の高速道路ならなるべく地形に沿って建設するところを、この国は労働力の数に物を言わせ、どれだけ手間がかかろうともとにかく真っ直ぐな道を作ろうとしているのだ。
これも偏に国威のためなのか。

同時に、日本のODAにより中国、ベトナム、ラオス、バンコクへと貫く「東西回廊」も建設されつつある。
これらの道が完成した暁には、物や人の移動するスピードは極端に加速する。
その結果として、数百年のうちに中国は、日本が太平洋戦争で成し得なかった大東亜共栄圏を作り上げようとしているのではないだろうか。

さらに中国は西方政策としてインドや中央アジア諸国へと繋がる西部にも道路を建設中である。
それが完成すれば、いずれは欧州にまで達する完全舗装のシルクロードとなる。
かつて西洋では全ての道はローマに通ずと謳われたが、近い将来、全ての道が北京に通ずるに違いない。
その規模はローマ帝国など比ではない、文字通り世界の全ての道である。
世界の至る所に移住しチャイナタウンを作り上げてきた華僑は国際道路によって結ばれ、いずれは中国人、もとい漢民族によって世界が統一されることもあり得るかもしれない。

日本人である我々にはただ指を咥えて傍観するしか術はないのか。
はやる気持ちに衝動を禁じえない。


(今日の写真:ラオスの国境。1キロ先に中国の国境。その間はグリーンベルト。at ボーテン/ラオス)

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071025

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August 31, 2007

がつん旅


生きる為に働くのか、働く為に生きているのか―――
既定の盆休みに先駆けて有給休暇を取った8月10日(金)、ルアンパバーンへ向かうトランジットの待ち時間は会社や取引先への国際電話に明け暮れた。

歩を止めた時点で旅は終わる。
夜行便で大阪〜バンコク〜ルアンパバーンへ1日の内に飛び、翌早朝にはすぐルアンナムターへバスで移動。
ルアンナムターで2泊した後、今度は中国雲南省の南部・西双版納に入って景洪(ジンホン)からバンコクへ飛ぶ。
7日間しかないニッポンのサラリーマンの休暇を生き急ぐように移動し続けた。

ルアンパバーンから途中ウドムサイでの昼食休憩も入れて計8時間バスに揺られ、ルアンナムターに着いたらもう夕方の5時を回っていた。
ルアンナムターは相変わらず寂しい町だった。
必要以上にやたら広い道。
数が少ない上に道を照らし切れない暗い街灯。
夕刻になると町の中央のスピーカーからぼそぼそと響く意味不明のアナウンス。
寝不足や移動に次ぐ移動で疲労する所為か、この町に来ると必ず鬱な気分に陥る。
孤独と疲労に堪えかねて、こんな旅に出るんじゃなかったと、夜、小汚いゲストハウスの一室で泣きそうになったりする。
なのにまた来てしまったルアンナムター。
実は自分はマゾなんじゃないかなどと本気で考え込んだこともあったが、
そんな心配を杞憂に終わらせてくれる言葉があった。

―――がつん旅。

ひそかにほぼ毎日チェックしてるツマリョコ!ブログ(本サイト名:妻は旅行がお好き。)のえびさんのお言葉。
がつん旅とは、まったりじゃない旅。
ソウル=魂をがつんと揺さぶってくれるような、否、むしろがつんとぶん殴ってくれるような衝撃を与えてくれる旅。
体力的・精神的にきつければきついほど旅度がアップする、そんな旅。
私は知らずそんな衝撃に飢えていたのかもしれない。

翌朝、レンタサイクルで以前訪れたランテン族の集落へ向かった。
3年前に撮った姉妹の写真を手渡すために、わざわざ2L判に印刷した上ラミネート加工まで施したのだ。
喜んでくれるだろうか?
歓迎してご馳走なんかしてくれたりして…なんて淡い期待を抱きつつペダルを漕いだ。

しかしランテン族の集落に入って驚いた。
集落の約半分が消えていた。
3年前には小川を挟んだ向こう側にも集落が続いていたのに、山が崩れて飲み込まれた様な形跡が伺えた。
今年の5月にタイ・ラオス・ミャンマーの国境付近でM6.3ほどの地震があったと聞いて心配していたのだが、その被害なのだろうか。

幸い写真を撮った姉妹の家は健在だったので訪ねてみたら、
庭先でお婆さんが一人、せっせと藁を編んでいた。
サバイディー(こんにちは)と挨拶して庭に入り、この子たち知らない?と写真を見せて聞くと、緩慢な動きでジェスチャーを交ぜながらモソモソと小声で話してくれた。
どうやら向こうの山へ柴刈りに行ってるらしい。
じゃまた後で寄ります、と言っていったんその場を離れ、小1時間ほど散策してまた訪問すると、ちょうど姉妹が帰って来た。
二人はまだ子供だと言うのに大量の枝葉を集めた布を頭から提げ、汗を流しながら家へ入って行った。
私が再び庭の外から挨拶して写真を渡しに入ると、ほんの少しだけ笑顔を見せて「コプチャイ(ありがとう)」と言ってくれた。
疲れていたのだろうか。
あまり喜ばれなかったのか、あるいは半ば呆れていたんじゃないだろうか。
彼女らがどれだけ働こうとも、彼女らは1度たりとも日本に来ることはないだろう。
にも関わらずこの男は2度も顔を見せやがって……というのは考え過ぎかもしれないけど。

恐らく彼女らは学校に行くこともなく大人になるのだろう。
貧乏人の子沢山とはよく聞く言葉だが、それは何故なら貧しい地域では
子供イコール労働力だからなのだ。
しかしそもそも、彼女らには「働いている」という実感があるだろうか?
重い荷物を持って遠い距離を歩きながら、時給の計算をすることはまず無い。
彼女らにとってその労働は、即ち生きることなのだ。
生きる為の労働だとか、労働の為の生などでは無く、「生きる=働く」なのに違いない。
彼女らの汗にガツンと魂を揺さぶられた。
日本に帰ったら、彼女らに恥ずかしくないぐらい真面目に働こう。
固く心にそう誓った。


そんなわけで来週は大連へ出張してきます。
もちろんおシゴトです。
頑張ります。


(今日の写真:ド迫力バス旅 at 磨憨〜モンラー間/中国雲南省)

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