ラオス
November 07, 2009
Escape to Laos.
極寒のオホーツク海。
吹き荒ぶ雪風、うねる海面、叩きつける大波。
乗員はその過酷な労働環境に見合わぬ低賃金で酷使され、よもや人権などというものは無く、その描写はローマ帝国時代に奴隷や罪人を詰め込んだガレー船を彷彿させる程に劣悪であった。
プロレタリア文学の旗手・小林多喜二の『蟹工船』を読んだ。
大時化の中を無謀にも漁に出された川崎船は、風に曝され波に揉まれ、ソ連領である樺太に漂着してしまう。
ロシア人らに手厚く保護された彼らは、やがて母船に戻り、その地の教えを乗員の間に拡めた。
ソ連、そこは資本家ではなく労働者こそ主人公たれる夢の国だった…。
先月の盆休み、追い立てられる毎日に堪り兼ね、ほぼ衝動的に航空券を購入した。
またもやバンコク経由ルアンパバーンへ。
今年は9月にシルバーウィークと呼ばれる連休が控えている所為か、8月10日になってもまだ盆休み中の早割対象の席が空いていた。
考えていることは皆同じなのか、9月の連休は行先に関係なく何処も満席らしい。
ルアンパバーンへは5度目の訪問になる。
今回は飽くまでもリゾートに来たのだからと、バンコク空港内のラウンジから少々値の張る小洒落たゲストハウスをインターネットで予約した。
当日の空室を埋めるため、40%オフでの提供。
3年前に訪れた時はゲストハウスの建築ラッシュを迎えていた。
町の其処此処で大工のトンカン、トンカンと叩く音が響いていた。
そこに来てリーマンショックに端を発する世界的な経済恐慌。
旅行者は激減し、雨後の筍のように建ち上がった多くのゲストハウスは日の目を見ぬ間にバタバタと差押えの憂き目に遭ったと人づてに聞いた。
とは言えそこはラオス。
夜逃げだとかホームレスだとか、道端に座り込んで空缶を前に置く姿はあまり想像し難い。
山に入れば簡単に自給自足で暮らしていけそうな気さえする。
翌朝、思い立ってパーク・ウー洞窟へ行ってみることにした。
メコン川沿いに切り立った断崖に穿たれた洞窟に何万体もの仏像が祀られており、郊外の観光地として知られている。
本音を言えば別にパーク・ウーには大して興味はなかった。
ただ船に乗ってメコンの流れに抱かれたかったのだった。
午前中にワット・シェントンの船着き場で交渉し、船が出払っていたため予約として半額を前金として支払った。
宿に戻って転寝に興じ、昼食、スパでマッサージを受け、贅沢に時間と金を費やした後、再び船着き場へ。
10人程度は乗れる長細いボートを一人でチャーターし、メコンへと漕ぎ出す。
空から見下ろせば大河に浮かぶその様は、濁流に流される笹舟の様にも見えたかもしれない。
メコンは相変わらず静寂に満ち、神秘的だった。
メコンの風、川面の匂い、時折手を川面に浸して直に触れてみる。
あぁ、これだ…と感激に胸を震わせた。
ウィスキーで喉を潤した際の余韻を彷彿とさせる程に、意識を遠くに旅立たせ、より深く沈めてくれる。
まるでメコンに酔い痴れる様だった。
約1時間半の船旅を経て、パーク・ウーに到着する。
洞窟へと向かう参道を進むと、子供らがワラワラとやって来て取り囲まれた。
それぞれ手に菓子やら玩具やらを持ち、「これ買ってよ。」としつこく付きまとう。
情に負けて菓子を買ってやると、後から追いかけて来て、お腹が空いたというジェスチャーをして見せた。
つまり今売った菓子を食べさせてくれと言うのだ。
もはや神は死に、経済という怪物がこの世を統べているのか。
メコンの豊かな水に恵まれたこの地も所詮人の世でしかないと悟る。
もはや逃げ道は無いのだと。
戦前、共産主義思想に憧れソ連に亡命する日本人が多く存在した。
共産主義の敗因は何だったのか。
思想そのものが悪かったとは思わない。
マルクスにしろエンゲルスにしろ、大衆の愚かさを知らなかったのだろうか?
思想は理性により構築されるものだが、一般大衆とは理性よりも感情が勝る人種である。
人間の愚かさと欲深さこそ国家腐敗に至る要因だったのだ。
愚は罪なり。
しかしそれでも尚飽きることなく全人類が豊かになれればと願いながら荒野へと導く羊飼いをただ待つだけの私は、やはり愚なる大衆の一人なのに違いない。
February 29, 2008
One-way Trip.
バンコクで帰りの航空券を捨てた時の爽快感を今もよく思い出す。
いつ帰国するのかは自分次第。
自由を手にした瞬間だった。
もしも人生に後戻りが許されるなら、
自分は今、何処で、何をしているだろうか。
法善寺横丁にある小さなバー「タロー」にて、
父がキープで置いてあるサントリー・ロイヤルを兄と2人で飲みながら、
家で飲むよりも外で飲む酒が美味いのは何故かという話になった。
マスターは言った。
適度な緊張感こそ酒を美味しくするエッセンスなのだと。
己の生命は誰の為にあるのだろうか。
己の人生は誰の為にあるのか。
己の為とする回答は余りに独善的で傲慢極まりない。
そんな人生はマスターペーションに変わりない。
与えられた自由を履き違えてはいけない。
適度な制約こそ、自由を自由たらしめるエッセンスに違いない。
制約のない自由など、ただだらしがないだけだ。
我々には、もう後戻りは許されないのか。
2001年春、私は会社を辞め、貯めた金で旅に出た。
格安航空券でタイに入国し、帰りの航空券を捨ててタイとラオスを周遊した。
再び戻ったバンコクのカオサンでオーストラリア行きの片道航空券を購入し、シドニーへ飛んだ。
そこから3日3晩バスに乗り続け、当時ワーキングホリデーに出ていたカノジョに会うためにケアンズへ向かった。
ケアンズで1ヵ月ほど過ごしたのち帰国を決意し、
成田までの片道航空券でケアンズを発ったのは9月10日の深夜のことだった。
グアム経由成田行き、コンチネンタル航空。
2001年9月11日未明、米国領グアムに到着。
折しも大型台風が東京を襲い、成田行きの飛行機は出発を見合わせることとなった。
ボーディングゲートに表示している待ち時間は、3時間、4時間、5時間…と延び続け、
最終的に10時間まで表示されたものの、結局8時間遅れで搭乗を開始した。
大阪出身の私が成田に向かったのは東京で友人と会う約束をしていたからだったが、
飛行機の遅延のため誰とも会うことが出来ないまま、最終の新幹線にて帰阪。
大阪駅から自宅まで歩いていると、カノジョから国際電話がかかってきた。
「無事に着いた!?今、ニューヨークが…!!」
21世紀の世界を方向付けた瞬間だった。
我々はどこまで愚かなのだろうか。
アダムとエバはエデンで何不自由ない生活を約束されていた。
彼らは死からも守られ、自由だった。
ただ一つ、エデンにある1本の樹の実だけは食べてはいけないという制約を除いて。
結果として、その制約を破ったために彼らはエデンから追放され、
産みの苦しみと死の苦しみに束縛されることとなった。
何かを得る為には、何らかの代償を支払わなければならない。
生を享受する為には、死でもって支払わなければならない。
我々の生命は確実に死に向かって滑落している。
後戻りはできない。
世界は、どこまで滑落して行くのだろうか。
後戻りはできない。
ならば、新たな一歩を前に踏み出すしかない。
己の生命を他者のために費やしたならば、その生命は多くの者に受け継がれる。
たとえ非力であっても、たった一枚の葉の働きが大樹に栄養を提供しているように、
無意味な働きなど無い。
生命の大樹を支える一葉のごとく、使命を果たし終えるその日まで生きて行けたなら、
それに勝る幸福などあり得ない。
振り返ることの許されない旅路に、新たな一歩を。
(今日の写真:「カゥミンクワンユームァンビァンカム」くん at ルアンパバーン/ラオス)
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October 30, 2007
The Road.
妻は言う、「意志在る所に道は開ける」と。
しかし私は思う。
その道の先に何があるというのか。
人は皆オギャーと生まれたその瞬間から死への旅路を一途に歩む。
死が不可避である真実を知識として持ち合わせながら、それでも人は懸命に生きる。
愚かな現実逃避だろうか?
その生に意味はあるのだろうか?
たとえ行き着く先が死であろうとも、何人たりともその光景を見て持ち帰った者はいない。
人は道の先に在る光景を見んとして、知らず生きているのではないだろうか。
見えざる明日を希望として歩を前に進める。
道が続く限り人はその旅に希望を抱き続けられるのかもしれない。
生への希望の前では、死への絶望など儚く弱い。
午前7時、バスターミナルとは名ばかりの原っぱにマイクロバスやトラックが集結する。
せき寂の町ルアンナムターも、この時ばかりは活気を帯びる。
バスターミナルの前の市場は人で賑わい、売る者も買う者も声を張り上げる。
バスターミナルでは運転手が行き先を大声で告げまわって客を集めている。
私は朝食にオレンジジュースと水、そして香ばしいフランスパンの練乳サンドを市場で買ってモンラー行きの国際バスに乗り込んだ。
モンラーは中国雲南省の南端にある西双版納(シーシャンバンナ)タイ族自治州の一都市。
ラオス北部から中国へと抜ける旅路。
陸路で国境を越える―――今までの旅で国境を越えるなど一度や二度ならず経験しているが、海に囲まれた日本人としては、何度経験しても期待に胸を高鳴らせずにはいられない。
島国と違い、道は国境を越えて何処までも続く。
大陸で生まれ育った人間のスケールの大きさを思い知らされる。
ルアンナムターを出たバスは町を出ると水田に挟まれた道を東へと真っ直ぐに突き抜け、途中の三叉路を北に折れて山道を上った。
中国のODAによるものなのか、山間を走る道路は意外にもしっかりと舗装されており、バスターミナルを出て小一時間で我々は出国ポイントであるボーテンに難なく到着した。
バスの乗客は皆いちど降り、各々パスポートを持って道の脇にある事務所へ出国手続きを受ける。
少し離れた所に、山深い景観を全く度外視したパステルカラーのマンション風の建物が2棟建っていた。
余りの趣味の悪さに目を離さずにいられない。
全員が揃ったところでバスはどちらの国にも属さないグリーンベルトを走る。
その間にもパステルカラーの不自然な建物は其処此処に見受けられ、それは中国の入国ポイントであるモーハンで極められた。
もはやそこは浦安にあるネズミの王国であるかのようなお伽の国。
「白雪姫」の7人の小人よろしく、ピンクや水色にペイントされた店から両替商が出て来て旅人を取り囲む。
赤貧の国ラオスとの貧富の差を見せつけ国威を表現しようとの魂胆なのか、異様な光景に目眩を覚えずにいられない。
入国を済ませ、再びバスに乗ってモンラーを目指す。
モーハンを越えるともう人工的な色の建物は現れない。
山間の細い道の脇に所々、瓦屋根の古い家屋とのどかな日常が見受けられた。
慎ましい暮らしぶりに心洗われるのも束の間、バスはラオスよりも酷い凹凸の激しい砂利道にぶつかった。
外を見ると、建設中の大きな道路をまさに横切ろうとしているのであった。
バスの走る山道は何度も蛇行してはしばしばこの道路に差し掛かり、その度に我々は悪路を強いられた。
つまりこの建設中の道は、自然の地形などいっさい無視し、山を削り谷を埋め、ひたすら直進しているのだ。
この道こそは深センから雲南省、ラオスを突き抜けバンコクへと繋がる「南北回廊」と呼ばれる国際道路。
日本の高速道路ならなるべく地形に沿って建設するところを、この国は労働力の数に物を言わせ、どれだけ手間がかかろうともとにかく真っ直ぐな道を作ろうとしているのだ。
これも偏に国威のためなのか。
同時に、日本のODAにより中国、ベトナム、ラオス、バンコクへと貫く「東西回廊」も建設されつつある。
これらの道が完成した暁には、物や人の移動するスピードは極端に加速する。
その結果として、数百年のうちに中国は、日本が太平洋戦争で成し得なかった大東亜共栄圏を作り上げようとしているのではないだろうか。
さらに中国は西方政策としてインドや中央アジア諸国へと繋がる西部にも道路を建設中である。
それが完成すれば、いずれは欧州にまで達する完全舗装のシルクロードとなる。
かつて西洋では全ての道はローマに通ずと謳われたが、近い将来、全ての道が北京に通ずるに違いない。
その規模はローマ帝国など比ではない、文字通り世界の全ての道である。
世界の至る所に移住しチャイナタウンを作り上げてきた華僑は国際道路によって結ばれ、いずれは中国人、もとい漢民族によって世界が統一されることもあり得るかもしれない。
日本人である我々にはただ指を咥えて傍観するしか術はないのか。
はやる気持ちに衝動を禁じえない。
(今日の写真:ラオスの国境。1キロ先に中国の国境。その間はグリーンベルト。at ボーテン/ラオス)
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August 31, 2007
がつん旅
生きる為に働くのか、働く為に生きているのか―――
既定の盆休みに先駆けて有給休暇を取った8月10日(金)、ルアンパバーンへ向かうトランジットの待ち時間は会社や取引先への国際電話に明け暮れた。
歩を止めた時点で旅は終わる。
夜行便で大阪〜バンコク〜ルアンパバーンへ1日の内に飛び、翌早朝にはすぐルアンナムターへバスで移動。
ルアンナムターで2泊した後、今度は中国雲南省の南部・西双版納に入って景洪(ジンホン)からバンコクへ飛ぶ。
7日間しかないニッポンのサラリーマンの休暇を生き急ぐように移動し続けた。
ルアンパバーンから途中ウドムサイでの昼食休憩も入れて計8時間バスに揺られ、ルアンナムターに着いたらもう夕方の5時を回っていた。
ルアンナムターは相変わらず寂しい町だった。
必要以上にやたら広い道。
数が少ない上に道を照らし切れない暗い街灯。
夕刻になると町の中央のスピーカーからぼそぼそと響く意味不明のアナウンス。
寝不足や移動に次ぐ移動で疲労する所為か、この町に来ると必ず鬱な気分に陥る。
孤独と疲労に堪えかねて、こんな旅に出るんじゃなかったと、夜、小汚いゲストハウスの一室で泣きそうになったりする。
なのにまた来てしまったルアンナムター。
実は自分はマゾなんじゃないかなどと本気で考え込んだこともあったが、
そんな心配を杞憂に終わらせてくれる言葉があった。
―――がつん旅。
ひそかにほぼ毎日チェックしてるツマリョコ!ブログ(本サイト名:妻は旅行がお好き。)のえびさんのお言葉。
がつん旅とは、まったりじゃない旅。
ソウル=魂をがつんと揺さぶってくれるような、否、むしろがつんとぶん殴ってくれるような衝撃を与えてくれる旅。
体力的・精神的にきつければきついほど旅度がアップする、そんな旅。
私は知らずそんな衝撃に飢えていたのかもしれない。
翌朝、レンタサイクルで以前訪れたランテン族の集落へ向かった。
3年前に撮った姉妹の写真を手渡すために、わざわざ2L判に印刷した上ラミネート加工まで施したのだ。
喜んでくれるだろうか?
歓迎してご馳走なんかしてくれたりして…なんて淡い期待を抱きつつペダルを漕いだ。
しかしランテン族の集落に入って驚いた。
集落の約半分が消えていた。
3年前には小川を挟んだ向こう側にも集落が続いていたのに、山が崩れて飲み込まれた様な形跡が伺えた。
今年の5月にタイ・ラオス・ミャンマーの国境付近でM6.3ほどの地震があったと聞いて心配していたのだが、その被害なのだろうか。
幸い写真を撮った姉妹の家は健在だったので訪ねてみたら、
庭先でお婆さんが一人、せっせと藁を編んでいた。
サバイディー(こんにちは)と挨拶して庭に入り、この子たち知らない?と写真を見せて聞くと、緩慢な動きでジェスチャーを交ぜながらモソモソと小声で話してくれた。
どうやら向こうの山へ柴刈りに行ってるらしい。
じゃまた後で寄ります、と言っていったんその場を離れ、小1時間ほど散策してまた訪問すると、ちょうど姉妹が帰って来た。
二人はまだ子供だと言うのに大量の枝葉を集めた布を頭から提げ、汗を流しながら家へ入って行った。
私が再び庭の外から挨拶して写真を渡しに入ると、ほんの少しだけ笑顔を見せて「コプチャイ(ありがとう)」と言ってくれた。
疲れていたのだろうか。
あまり喜ばれなかったのか、あるいは半ば呆れていたんじゃないだろうか。
彼女らがどれだけ働こうとも、彼女らは1度たりとも日本に来ることはないだろう。
にも関わらずこの男は2度も顔を見せやがって……というのは考え過ぎかもしれないけど。
恐らく彼女らは学校に行くこともなく大人になるのだろう。
貧乏人の子沢山とはよく聞く言葉だが、それは何故なら貧しい地域では
子供イコール労働力だからなのだ。
しかしそもそも、彼女らには「働いている」という実感があるだろうか?
重い荷物を持って遠い距離を歩きながら、時給の計算をすることはまず無い。
彼女らにとってその労働は、即ち生きることなのだ。
生きる為の労働だとか、労働の為の生などでは無く、「生きる=働く」なのに違いない。
彼女らの汗にガツンと魂を揺さぶられた。
日本に帰ったら、彼女らに恥ずかしくないぐらい真面目に働こう。
固く心にそう誓った。
そんなわけで来週は大連へ出張してきます。
もちろんおシゴトです。
頑張ります。
(今日の写真:ド迫力バス旅 at 磨憨〜モンラー間/中国雲南省)
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scott_street63 at 23:17|Permalink│Comments(6)│
March 31, 2007
スコッチとメコン
ウィスキーの味は醸造所の風土によって作られる。
『シャヴィ』のマスターは色々な酒を試した結果、ウィスキーに辿り着いたと言う。
マスターの後ろには各種のウィスキーのボトルが並んでいる。
その中ではどれが一番好きなのかと尋ねたところ、「そうですね…」と少し悩んでから1本のボトルを私の前に置いた。
<ラフロイグ>という名のスコッチだった。
「これほど好き嫌いのハッキリ分かれるウィスキーは少ないと思いますよ。
個性が強いと言うか、香りが強烈なんですよ。」
ちょっといいですかと断ってからフタを開け、鼻を近付けてみたがよく分からなかった。
「飲んでみないと分からないですよ。」
と言われ、試しにロックで飲んでみることにした。
グラスに真ん丸い大きな氷を入れ、マドラーで素早くかき混ぜグラスを冷やし、
慣れた手つきで流れるように<ラフロイグ>を1ショット注いで私の前に差し出してくれた。
こわごわ口に含んでみると、強烈な匂いが口腔から鼻腔へと突き抜けた。
歯医者の消毒液の匂いに酷似している。
しかし匂いの嵐が落ち着き始めると、脳裏に静かな海が拡がった。
「歯医者の匂いにソックリですね。」
「そうでしょう、みんなそう言います。」
「でも、奥の方に海の香りを含んでるような気が…」
私の言葉にマスターは驚いた表情を見せて「素晴らしい!」と褒めてくれた。
この<ラフロイグ>の醸造所は海の際に建てられているらしい。
そのため樽が潮風を浴び、ウィスキーに個性をもたらせているのかもしれない。
マスターはウィスキーというウィスキーはほとんど飲んだことがあると言う。
それでは…とメコンウィスキーの名を挙げると、その名を耳にするのも初めてということだった。
ましてやタイでウィスキーを醸造しているのも知らなかったという。
もうすぐ開店4年目を迎えるマスターへのお祝いはメコンウィスキーに決まった。
タイへ出張する兄に私の分とマスターの分、計2本のメコンウィスキーを買ってきてもらうように頼んだ。
私もメコンウィスキーは飲んだことがない。
想像と期待が膨らむ。
静かで神秘的なメコン川が脳裏に浮かぶ。
ラオス周遊の旅もいよいよ終盤を迎え、シェンコックに到着した。
シェンコックで再会したメコンもやはり静寂に満ち、しかし力強く、
異邦人を寄せ付けない何処か神秘的な雰囲気が窺えた。
メコンを挟んだ対岸はミャンマー。
川を北上すると中国。
中国の赤い星の旗を掲げた貨客船が何度か私の視界を横切った。
このメコンをスピードボートで約5時間一気に南下し、タイの入国ポイントである
チェンコンの対岸の町・フエサイへと向かう。
船頭の後に付いて川面へと下りて見ると、遠目に見ていた以上に流れが速い。
細長い船体の最後尾にドでかいエンジンを積んだスピードボートに乗り込むと、
船頭からヘルメットとライフジャケットを渡された。
高速で投げ出されたとき、水面はコンクリートの固まりに変わると言う。
不安と恐怖を内包しつつ、凄まじいエンジン音と共にボートは出発した。
いざ投げ出された時のために、私はこっそり靴紐をほどいた。
ボートは川の上を飛ぶように爆走した。
波に揉まれ、時に押され、時に真正面からぶつかり、
跳ねたと思った次の瞬間には水面に叩き付けられた。
歯を食いしばらなければ舌を噛みかねない。
前方の景色が曇って見えたかと思うと、船頭が急にスピードを緩めた。
乗客に足下のビニールシートを上げるように指示した。
全員がビニールシートを被ったことを確認すると、再びスピードを上げて突進した。
途端に激しい雨が打ち付けてきた。
スコールだった。
ごく小さなスポットで降りしきるスコールを突き抜けると、再び快晴の空の下に出た。
ボートの勢いはなおも止まらず、川は何処までも続く。
途中の船着き場で休憩を挟み、再び南下を続けること約2時間。
それまでずっとミャンマーとラオスに挟まれた山間いを走っていたのが、
一気に視界が開けた。
麻薬栽培でその名を轟かせたゴールデントライアングルが眼前に拡がっていた。
タイに到着したのだ。
その時の感動を今でも忘れない。
心を震わせ、感謝せずにはいられなかった。
誰に?
神にか?
両親にか?
あるいはメコンにかもしれない。
荒れていた波は治まり、ボートの脇に走る縦の波が竜の背のように見えた。
メコン川には竜が住んでいると聞く。
メコンの竜神に感謝を捧げずにはいられなかった。
静寂と神秘に満ちる4,000kmに及ぶ大河。
その川のほとりで醸造されるウィスキーに期待が膨らむ。
果たして、2週間に渡る出張から兄が帰って来た。
待望のメコンウィスキーは……ドブの匂いに満ちていた。
生活汚水を垂れ流すチャオプラヤー川で造られてるんじゃないだろうか。
検証の余地が存分にある気がする。
ちなみにマスターは、恐ろしくてまだ開封していないらしい。
賢明かもしれない。
(今日のしゃしん:海底トンネル掘削機 at うみほたる/千葉県木更津
きのうまで東京へ遊びに行ってました。)
February 28, 2007
Capitalism
神戸の舞台芸術を主とした批評紙「Splitterecho」のブログ版
「しゅぷりったあえこおnano」の11月16日の記事にいたく感銘を受けた。
たび重なる児童の自殺を「こどもたちの自爆テロ」と表現した文章は、
的確に社会を刺していると思う。
大人、あるいは政治家が造り出した社会の歪みを身をもって指摘する悲報の数々。
今もどこかで敢行されているかもしれない児童による自爆テロ。
いじめる・いじめないの問題ではなく、
社会あるいは大人たちの歪みに要因があるのではないか。
親は子の鑑となるべきだが、子は親の<鏡>でもある。
モラルの欠如した大人を見、子供はそれを模倣する。
競争社会に生きる親を見、教室で優劣を競う。
資本主義による競争社会は小泉政権の改革によって激化し、
その歪みが次代を担う子供たちに現れる。
ソ連の崩壊により共産主義は敗北したが、
資本主義に代わる経済体制を創造する必要があるのではないか。
ある子供の目が私の脳裏から消えない。
ルアンナムターから2〜3km離れた所にランテン族の集落がある。
少数民族と言えば独特な民族衣装を容易に連想するが、
普段から民族衣装を身に纏っている人はそう多くない。
ルアンナムター周辺のアカ族の集落では、独特な“すず”の兜どころか、
短パンにタンクトップ姿の男が軒先で煙草をふかしている程度であった。
しかしランテン族の集落に入ると、大人から子供まで皆、
伝統的な藍染めの民族衣装に身を包んでいた。
真夏の最も暑い盛りに自転車で集落の中を走っていると、
池で水遊びに興じている子供たちが、
「サバイディ〜(こんにちは)」
「カモーン、カモーン。」
と手を小招いてくるから近寄ってみると、首からぶら下げた私のカメラと
自分とを交互に指差し、
「フォト、1ダラー」
と商売を始めた。
1ドルくれたら私の写真を撮ってもいいわよ、と言うのだ。
「ノーサンキュー」
と断ると、今度は目を指差し、
「ユールック、ハーパンキップ」
私を見たでしょ、はい5,000キップ(=0.5ドル)、などと言い出す始末。
彼らは観光客の需要を満たすべく民族衣装を着ているに過ぎない。
現実を目の当たりにして愕然とする私の前を、
猛スピードで砂埃を巻き上げながら1台のオートバイが走り過ぎた。
ヒップホップな帽子を被り、キュートなアップリケを貼り付けた洒落たジーンズに
流行の厚底ブーツで全身をキメた女の子が、妹か友達かと2ケツして
集落の奥の方へと消えて行った。
親が都市部か外国に出稼ぎに出ているのだろう。
同じ集落にあって、貧富の差が明らさまに見せ付けられる。
子供たちが必死に1ダラーとせがむのも当然と得心する。
集落から出る際に、一軒の家の庭で喋っている姉妹に
写真を撮らせてくれと頼んだ。
やはり1ダラーと言われたが、素直に支払った。
「ヌン、ソン、サン!(1、2、3!)」
と写真を撮って、彼女らの姿を液晶モニターで見せてあげる。
笑顔で喜ぶ彼らを見て私も喜んだのも束の間、困った事態に陥った。
いちばん上の姉がしどろもどろに英語と標準ラオ語とを混ぜて私に言った。
「この写真をください。」
見せることは出来ても手にすることの出来ない写真に何の意味があろうか。
私は本当に申し訳なく、渡すことは出来ないと伝えた。
その時の彼女の哀しげな目を、私は一時たりとも忘れたことがない。
彼女らを喜ばせるどころか、私は、身をもって彼女らに
貧富の差を見せ付けたに過ぎないのだ。
きょうフェニックスツアーにて盆休みの航空券を申し込んだ。
彼女らに写真を届けに行こうと思う。
(今日の写真:ランテン族の姉妹+弟 at ルアンナムター近郊/ラオス)
December 24, 2006
【Erehwon】=理想郷
メリーアサオです。
イブだというのに教会にも行かず、私は事務所にサービス出勤です。
ちなみに奥方はバイト。
こんな年末に休んでられまっせん!
というか、正直最近ぜんぜん余裕ありません。
とにかく自分と向き合う時間がない。
世渡り下手なのが災いしていろいろ背負い込んでしまい、
パンクしかかってるところを救ってくれたのは何を隠そう奥方でした。
結婚してよかったなぁ〜なんてのろけつつ、
彼女自身もまた私の重圧になってたのはここだけのヒミツということで…。
(けっして体重のハナシでは……ゴホッ、ゴホッ)
いえ、私が勝手に背負い込んでただけなんですけどね。
そんなわけで、今月は月イチUPすらままならないので、
過去の日記ツールで掲載した文章でご容赦をば。。。
それにしても、ほとんど誰も来ないこのブログを更新しないと…
と思う気持ちは何なんでしょ。
そもそもHPやブログで日記を公開する意味は?
これまで旅について書いてきたけど、webというものも旅に似ている。
webとは空間である。
仮想とは言え、webページを所有する者には空間が与えられている。
そして仮想だからこそ、webは居心地の良い逃げ場所ともなる。
仮想の世界なら自分が何者であろうと構わない。
名前も職業も国籍も家族をも捨て、何者でもない自己、純粋な自身となり得る。
旅も同じだ。
日本を出て一人になってしまえば、余程のことがない限り、
誰も私の正体など知りはしない。
誰も私が何者なのかと追及もしない。
そこにいるのは誰でもない、ただの“私”だけ。
webを仮想の空間と呼ぶなら、旅は仮想の時間かもしれない。
私はなぜ旅に出るのか?
私が求めているのは、何者でもない、何にも囚われることのない、
純粋な“私”となれる場所。
此処ではない何処か。
それは理想郷と呼ばれ得るものなのかもしれない。
かつて理想郷をエレフォンと呼んだ人がいる。
【Erehwon】逆に返せば【Nowhere】。
すなわち「何処にも無い」。
しかし、私はその何処にも無い理想郷を見付けてしまった気がする。
何処にも無いそれは、何処でもない場所にある。
此処でもない、其処でもない。
むしろ此処と其処の間。
移動の最中にこそ私が真に“私”となれる気がする。
ルアンパバーンからウドムサイを目指し、ソンテウに乗った。
荷台の両端に簡素なベンチを設置し、幌を被せた乗合いトラック。
人と物を満載したところで、小雨の降る中、山道に向けて出発した。
ラオスは山の中にある国だ。
とりわけヴィエンチャンより北は、隣接する中国・雲南省に向けて
標高を上げながらひたすら山が続く。
トンネルなんて洒落たものはない。
ただひたすら山を上り、下ってはまた上りながら進む。
途中車外に目を向けると、山々の頂が眼下に拡がっている。
もちろんガードレールなんてものも無い。
舗装されている筈の道路はぬかるんで沼と化し、また長雨による山崩れで塞がれ、
七難八苦を乗り越えながらソンテウは前へと進む。
私の向かい側にアカ族の親子がいた。
銀色の兜を被り、独特な民族衣装に身を纏った母親と子供2人。
その子らが私の顔を凝視していた。
「○X△◇……」
私に何か話しかけて来たが、何を言ってるのか分からない。
隣のおばさんが訳してくれた。
「……ティナイ?」
ティナイ(何処)という言葉しか解らなかったが、
この状況から何処から来たのかと聞きたいのだろうと判断し、
ジープン(日本)だと答えると、車内がどよめいた。
皆、好奇の目を私に集めた。
アカの子供たちは初めて見た日本人にやや興奮気味でさえある。
皆めいめいに「おい、ジープン」「ヘイ、ジープン」と声を掛けて来たが
何を言っているのか解るはずもない。
知っているタイ語を並べてラオ語は解らないと答えると、皆が笑った。
彼らにとっては日本人の方が明らかに少数民族なのだった。
途中の緩やかな下り道で車が止まった。
道端で何やら売っている。
運転手も客も、皆わらわらとそこへ群がって行く。
戻ってきた人々の手にはヘチマのような野菜があった。
車は再発進し、車内の人々はナイフを取り出して食べ始めた。
「それ何?」
隣りのおばさんに聞いてみた。
「マックァ。」
と答えて、竹割りに切ったマックァを私にくれた。
かぶりつくと、甘いキュウリだった。
「セアップ!(旨い)」
と言うと、また皆に笑われた。けっして嫌な気分ではなかった。
暫く走り、再び車が停まった。
途中の民家から男性が追いかけて来て荷台に飛び乗った。
「○×△◎!」
奥の方からその男に声が飛んだ。
見るとズボンのチャックが全開に開いている。
全員が大きな声で笑った。私も笑っていた。
景色が過ぎ行く毎に、私の中を風が抜けて行く。
私を定義付ける鎖が解け、足枷も外れていく感覚。
翼が生え、何処にでも飛んで行けるような錯覚。
この時、私は“私”だった。
現実逃避だなんて分かってるけど、たまのことなんだからいいじゃない。
(今日の写真:天高く馬肥ゆる… at 神戸市役所前の公園)
November 19, 2006
TRAVEL CAFE.
ビジネス街・本町のど真ん中に「TRAVEL CAFE」なるカフェが開店した。
「旅を体感できるカフェ&バー」という謳い文句だっただけに
開店を心待ちにしていたのだが、ボジョレー発売が解禁された先日、
開店後2ヶ月にしてようやく機会に恵まれ訪れた。
店内には50インチのプラズマディスプレーが入り口と奥の2カ所に設置され、
美しい外国の景色が絶え間なく放映されている。
…ただそれだけ。
“「旅」と「カフェ&バー」を融合した新しいタイプのお店です。”
とかなんとかフライヤーに書いておきながら、ただそれだけの店。
その程度のアイデアしかないんならいっそスクリーンも何もないほうが
ずっとマシだ。
初モノということでボジョレーを注文しようと店員を呼んだ。
「ここのボジョレーはどこの?」
「え…?どこ、の…?」
「ほら、産地とか、レーベルとか。」
「え…、ちょ、ちょっと聞いてきます。」
解禁当日というのに、店員の教育もその程度な店なのか。
「旅」と「旅行」は違う。
どちらも住み慣れた土地を離れての移動を意味する言葉であるが、
一般的に「旅行」と言えば楽しげな意味合いを含んで聞こえるものの、
「旅」と言えば、どこかストイックなものとして捉えられるべきじゃないだろうか?
ストイックなものである以上、「旅」は単独で行われるべきものと
私の中では決まっているが、
単身インドへ行くと言う妻の友人は、彼がウェブ上で公開している日記上で
「旅行」として扱った。
大学時代の知人などは、「旅」と称して男二人でインドへ渡った。
彼らを見ていると、ストイックであるか否かという抽象的な区別は
改めるべきかもしれない。
ビエンチャンにて、ある工学博士と知り合う機会があった。
旅が終盤を迎え、ルアンナムターからビエンチャンに戻ってきた夜、
現金の心もとない私はクレジットカードの利く欧米人の集まる店へ
夕飯を食べに行った。
生のビアラオとラオス風鶏肉カレー、フレンチフライで計3.5ドル。
ラオスの通貨は「kip(キップ)」だが、国民が自国の通貨を信用していないため
米ドルでの支払いがまかり通る。もとい、米ドルでの支払いの方が喜ばれる。
欧米人の集まる店では通常米ドルでしかメニューに記載していない。
賑やかな店内でひとり黙々と食べるのは少々つらい。
旅の疲れも手伝ってか、店内の騒がしさが寂しい気持ちに拍車をかける。
誰か似た境遇の人はいないかと辺りを見回すと、メガネをかけた、
この場に似つかわしくない日本人男性がいた。
ポロシャツにスラックス―――ビジネスで来たのだろうか。
話しかけて良いものか長く迷ったが、彼が「地球の歩き方」を開いたところを見て
旅行者だと判断を下して話しかけてみた。
「お一人ですか?よければ同席させてもらっても構いません?一人で食べるのも飽きてきたので…」
彼は快く承諾してくれた。
話をすると某大学の助教授にして工学博士らしく、NGOの要請を受け、
10人のグループを組んでビエンチャンの大学に赴き、
IT関連の開発に携わったと言う。
ラオス滞在は1週間。
他の9人と通訳は今朝ひと足先にバンコクに戻って
夜の盛り場を楽しんでいると言う。
しかし彼は自分の足でこの街を歩きたいと思い、
ビエンチャンに滞在することにしたらしい。
「なにせ毎日ホテルと大学の間をお迎えの車で行き来して、食事はレストランやホテルで用意されてるわけですからね、日本にいるのと全く変わらないんですよ。この国の中にいるのに、外から眺めてるだけ。時間があればもっとこの国のことを知りたかったんですがね。」
彼はこの一週間の滞在で感じたラオスの教育の遅れ、経済状況の酷さを語ったのち、
国内の他の地域について尋ねてきた。
私はデジカメで撮った写真を見せながら話した。
話は盛り上がり、ビアラオの追加を注文してさらに話しこんだ。
さて時間もいい頃合いだし、とお愛想となった。
彼は4.5ドルの伝票に対して20ドル紙幣しかなかった。
私はクレジットカードで払おうとしたが、カードリーダーが故障との理由で、
泣く泣く残り少ない米ドルを手放すことになった。
一方彼は、お釣りとして15.5ドル分のラオスキップ紙幣をどっさりと渡された。
互いに苦笑し、是非いちどルアンパバーンにも行ってみて下さいと
彼の手の分厚い札束を指して勧めた。
トラベルカフェにて、さっきの店員が戻ってきた。
「ボジョレーはボジョレーです。」
自信満々に答える彼女に呆気に取られた。
社員に聞いてそんな回答とは、ボジョレー並みに浅く若いということか。
旅を語るには深さも経験も足りない。
(今日の写真:夜のKIX at かんくう/大阪)
September 19, 2006
タイムトラベラー II
三次元に足りないのは時間軸の概念らしい。
幅・奥行き・高さの三次元から構成される空間に時間をプラスすることで
四次元となる。
ならば四次元の世界では時間軸上の移動、すなわちタイムトラベルが
可能なのだろうか…?
久しぶりに訪れたバー「シャヴィ」でグラスを傾けながら、
ふとそんなことを考えた。
客は私ひとり。
静かな店内に、手の平で弄ばれる氷の軽やかな音が響く。
琥珀色の澄んだ液体に、張り詰めた神経も溶けていく。
17年の時を経て私の前に注がれたウィスキー「響」。
彼の17年を噛み締めるようにちびりちびりと胃に流し込む。
これもまたタイムトラベル。
バンビエン発ルアンパバーン行きのバスは白人だけでほぼ埋め尽くされた。
約60人を詰め込んだ超満員のバスだが、眼前に拡がる広大なアスファルト舗装の
大地の上ではほんのひと摘みの人数に過ぎない。
ベトナム戦争時に米軍が使用した飛行場跡。
バンビエンの町はこの飛行場に沿って展開されている。
あの枯葉剤を積んだ飛行機もここから飛び立ったのだろうか。
当時に想いを馳せてみる―――何十台ものプロペラ機の耳をつんざく轟音が
脳裏に響く。
ベトナム戦争がラオスも舞台としていた事実はあまり知られていない。
バンビエンを発ったバスはルアンパバーンまで約8時間、
国道13号線を延々と走る。
山の中を駆け回るなら話は別だが、ルアンパバーンへ通じる道は
この一本しかない。
かつてこの道をほうほうの体でベトミンから逃げたモン族の姿が目に浮かぶ。
ベトナム戦争は、ベトナムからラオスに浸透する共産主義を食い止めるために
アメリカが起こした戦争だった。
敗戦を喫した米軍兵はさっさと本国へ帰還すればしまいだが、
米軍に傭兵として雇われた少数民族・モン族は、戦後、
ベトミンによる凄惨な掃討戦に追われることとなった。
多くの血がこの13号線で流され、
米国への憎悪を抱きながら果てて行ったに違いない。
凹凸の激しい国道に疲弊しながら、夕刻、ルアンパバーンに着いた。
ルアンパバーンの町の中心部には小高い山があり、
その頂上には「ワット・プーシー」と呼ばれる寺がある。
328段の階段を上り、ワット・プーシーからメコンに沈む夕陽を拝む。
その寺の裏に回ると、樹木に隠れるように重機関砲の砲台が今も残っている。
砲台の前は見晴らしが良く、故意にそこだけ樹木を取り除いているように思えた。
これもベトナム戦争の名残なのか。
目を閉じれば重機関砲の凄まじい爆音が聞こえて来る。
何も知らない子供たちは、公園の遊具のように砲台を回して遊んでいる。
9.11から5年。
ハワイの真珠湾を除き本国を狙われたことのない米国民にとって
あのテロによる衝撃は我々の想像をはるかに上回るだろう。
しかし、日本に未だ残るヒロシマ、ナガサキ、オキナワの傷跡は
紛れもなく彼らによって作られた。
韓国と北朝鮮も然り、アフガニスタン、イラクも然り、
過去を遡れば、米国民のテロに対する憎悪以上に、
世界中の憎悪が米国に向けられている。
9.11は起こるべくして起きたものなのかもしれない。
それを事前に察知しておきながら放置していたブッシュ大統領の策略も
酷いものだが。
タイムトラベルは過去を遡るだけではない。
未来に想いを馳せるのもまたタイムトラベル。
歴史を知ることで、未来への理想もより具体的なものとなる。
実現まで一千年かかってもいい。
一年に一歩でもいい。
より理想的な未来へと続く旅路を歩みたい。
……とりあえず、ブッシュ大統領、イッとく?
あ、ミャンマーの写真アップしました。
よければHPから見たってください。
(今日の写真:宙(そら)を想う at なんばパークス/大阪)
August 18, 2006
Nostalgic Journey
この盆休み、またルアンパバーンへ行ってきました。母を連れて。
母が一人でも行くと言い出したものの、やはり心配なので、
急遽たまったマイルを特典航空券に交換して。
ルアンパバーンは観光客が年々増加の一途を辿っているらしく、
雨後の筍のように其処此処で新しいゲストハウスやホテルが建てられている。
小さな街だから、観光客が現地人と同じぐらいいるんじゃないかと思わされるほど。
以前は無かったナイトマーケットも然り、
クレジットカードavailableな洒落たショップも然り。
夜になるとレストランから流れる音楽が騒々しく、
来年辺りはクラブハウスまで出現するんじゃないかと心配になる。
「何も無い」のが魅力だったラオス。
貧しい民が外貨を稼ぐ機会が増えたと考えれば嬉しくも思うが、
個人的な感傷としては、また一つ帰るべき場所を失った寂しさは否めない。
旅とは所詮、原風景への憧憬なのかもしれない。
自己の感情を昂ぶらせる未知なる何かを求めているつもりでも、
結局辿り着くのはいつか何処かで見た風景なのではないだろうか。
…私だけ?
幼少の頃より常に私の中に根付いている景色がある。
祖父母の住んでいた家から少し歩くと、見渡す限り田圃が拡がっていた。
正月や盆に親戚一同が祖父母宅に集まるのが慣わしだったが、
私は夕食の始まる時間まで一人で広い田圃の真ん中を散歩したものだった。
とりわけ正月の朝の田圃は、どんよりと雪雲の垂れ込む一面の空の下、
だだっ広い空間に誰一人通らず、
世界には自分一人しかいないのかと錯覚させるほど静寂に満たされていた。
その田圃を歩いていた時のことを思い出すと、甘く切ない気持ちに襲われる。
あの静かで穏やかな時間が私には何よりも幸福だった。
来年の正月にスペインに行きたいと妻から言われた。
某航空会社の特別レートで、通常50万円以上する運賃が、
一月一日からの出発だと8万円弱で往復できるのだ。
地中海に面する白く慎ましい町・ミハスで静かに時を過ごしたいという。
山肌に咲く白い小さな町。
教会の裏のミラドールから眺めるコスタ・デル・ソル。
地中海の上に拡がる青い空。
穏やかな気候のもと絶景を眺めながら、
町中のバルで買ってきた絞りたてのオレンジジュースとサンドウィッチで
遅いブランチ。
……いいかもしれない。
確かにそれもいいだろう。
それもいいと思う反面、私には全く逆の計画がある。
正月は中国四川省にある夏河(Xia He)に行きたい。
チベット族が8割を占める小さな街。
日本から北京あるいは広州で国内線に乗り換え蘭州へ。
蘭州からバスで約7時間。
冬の平均気温はマイナス8度。
写真で見る限りはどうやら盆地にできた町らしく、
周囲の山には樹木が生えておらず地肌が晒されている。
何があるのかと言えば、チベット仏教の寺が一つあるだけで、
他は大して何も無い。
しかし私は期待している。
雪雲が低く垂れ込む静寂がそこにはあるんじゃないかと。
寒さに堪えながら、何もない乾いた山肌を踏みしめたい。
ノスタルジーが産み出すものは何だろうか。
ノスタルジーとは、人を怠惰に後退させる甘い毒なんじゃないだろうか。
判ってる。
判ってるんです。
でも、正直ホント、心身ともに疲れてるんで、
甘んじる私を許してください。
(今日の写真:睨む竜 at ルアンパバーン/ラオス)