スペイン

January 07, 2012

1/10 Century.


上空3万4千フィート。
絶え間なく響く轟音が大気を切り裂く音と共に室内を充たす。
隙間なく居並ぶ座席に余す所なく着席する乗客。
消灯した機内の一席で閉塞感に耐えながら8時間前の世界に遡る。
冬のスペイン。
マドリードから9日間をかけてコルドバ、ミハスの3都市を巡る。
前回マドリードに降り立ったのは2001年。
約10年ぶりの訪問となる。
十年一昔―――。
ルーティンの積み重ねの中に起こった様々な出来事も、一昔の内に括られて霞の中へ薄れ行く。
10年前に遡るには地球をあと何周逆に回れば良いのだろうか。
一万光年をかけて光を届ける銀河の如く、我々の放つ生命の光を10光年かけて映す星があるならば是が非でも訪れたい。
懐古に浸る暇など与えぬ様に地球は非情にも回り続ける。
目にも止まらぬスピードで。
轟音と共に。


2001年4月。
22時30分グラナダ発バルセロナ行き夜行バスで、一路バレンシアを目指す。
約9時間の旅路。
余裕を見て1時間前に到着した我々は、バスターミナル内のレストランで時間を潰すことにした。
暇の供にカフェ・コン・レチェ。
話に興じている間にバスは準備が出来ていたらしい、定刻5分前に搭乗すると、我々が最後の客となっていた。
空席は最後尾から2列目のみ。
照明を落とし静かに出発を待つ乗客らの間を縫って奥へと進む途中、黒髪の女性と目が合い、思わず「あ。」と互いに声を挙げた。
「こんばんは。」
と日本語で挨拶を交わす私を、パートナーは不審に見ていた。
同じ匂いというものだろうか、相棒が気付かなかったそれを私と彼女は敏感に気付き、すぐに意気投合した。

夜のグラナダを駆る。
我々と彼女は憚りながら声を潜めて、何処を回って来たのかなど旅の話で盛り上がった。
彼女は単身モロッコを周り、ジブラルタル海峡を渡ってスペインに入り、これからバルセロナを経由してパリを目指すと言う。
その逞しさに我々は感心するばかりだったが、彼女はスペイン語はおろか英語もろくに話せないらしく、会話は専らジェスチャーだと言うものだから、更に驚くほかなかった。

バスは市街を抜け、農地とも荒地とも付かない大地を走る。
何も見えない漆黒の地面が高低の差をつけてうねり、それに合わせて車体も前後に傾斜する。
車内は平穏に静まり、我々も一定の話題が尽きて、眠りに就こうと目を瞑ったり、イヤホンで音楽を聴いたりして静かに過ごした。
外の闇の中にぽつり、ぽつりと赤茶けた瓦屋根を乗せた白壁の家が見える。
住居なのか納屋なのか、見当も付かない。
時折り我々と同じようなバスがすれ違い、その都度運転手は右手を挙げた。
互いに見えているのかいないのか、あるいは条件反射のようなものだろうか。
夜空の下、全てが静寂の中で営まれる。
漆黒の大地の上に散りばめられた星々が鮮明に煌めく。
静かに寝息を立てて凭れかかる相棒を尻目に、一人眠りに就けず呆然と夜空を眺めて過ごした。

いつの間に眠っていたのか、運転手の声で我に返った。
「休憩。トイレに行きたい方は外のバルでどうぞ。」
バスはこんな時間でも煌々と光を洩らすバルの真正面で停まっていた。
乗客の殆どが外に出る。
私も出る際に「休憩は何分間ですか。」と尋ねると、「15分」と運転手は簡潔に答えた。
にも拘わらずバルのトイレには長い行列が出来、とても15分で終わるとは思えなかった。
男性側は比較的待ち時間が短かったため、私はなんとか時間内に席に戻った。
相棒はまだ並んでいる。
はやる気持ちと裏腹に運転手は一向に戻って来ない。
見てみると、運転手も乗客と一緒にテーブルを囲んで笑いながら飲み食いしているのだった。
15分という話は何処に行ったのか。

私はバルでチョコレートを買い、車内に戻って3人で分けた。
再び旅の話に花を咲かせる。
バスはまだまだ出そうになかった。


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May 15, 2007

Internationalize.


普段あまりテレビを観ない私からすれば、実に久しぶりに杉浦太陽を見た。
別にここで婚前妊娠の是非を問うつもりはないけれど、私の極めて個人的かつ無責任な認識としては、いわゆるオメデタ婚は理想的だとさえ思う。
たとえ一時的なものだとしても、それが情熱あるいは本能の結果なのだとすれば、
オメデタ婚は極めて自然の流れに沿っていると言える。
結婚したが為に周囲からの圧力に負けて子作りに励むよりは遙かにマシだ。

それはともかく、私がこの杉浦太陽を最後に見たのは2年前、2005年に開催された「愛・地球博」、いわゆる愛知万博のリポーターとしての姿だった。
開催期間中の毎週金曜、30分だけの番組の中で彼が任された仕事は、海外から来た客をつかまえて出身国を尋ねる、というもの。
いくつかヒントをもらい、最終的に「ホエア・アー・ユー・フロム?」と質問するその企画に、以前の日記ツールで散々な事を書いた。
幾つかのヒントから出身国がブラジルであったりロシアであったりフランスであったり、とにかく英語を母国語とする国からの客でないことは明白だというのに、なお英語で質問するという行為に、日本はなんとイナカな国なんだろうかと嘆いたのだった。

外国人=英語という日本人の英語コンプレックス。
某英会話学校のテレビCMで金城武が言っていた通り、たしかに英語が話せれば世界の1億人と話せるかもしれない。
しかし言語は飽くまでも意思疎通を容易にするためのツールでしかない。
すなわち英語の能力は必ずしも国際化に直結しない。

欧州を地図で見てみると、実に大小様々な国々がひしめき合っているのが見て取れる。
にも関わらず彼らはそれぞれ独自の国語を維持している。
確かに都市部や若い人の間では英語は通じるらしいものの、地方や年輩の人々に英語は通じない。
それは彼らにとって英語とは単にイギリスという国の言葉という認識しかないと同時に、彼らはまた自分たちの言語に誇りを持っているからとも言える。
フランスで英語で道を尋ねたら仏語で返されたという話は実に有名だ。
言語によるアイデンティティを維持することで自国を誇る。
彼らは英語なんか話せなくても実に堂々としている。
外国からの旅行者に対して彼らの言語で捲し立てる光景も全く珍しくない。
対して我々ニッポン人は、世間では「英語は話せてトーゼン。」などと言われつつ、実際には未だに外国人から話し掛けられることを極端に恐れている。
我々ニッポン人は自国を誇れるだろうか?


私が大学4年の卒業旅行と称して行ったスペインツアーの最終日、私たち一行はバルセロナ空港でチェックインカウンターが開くのを待っていた。
皆は一箇所にかたまって旅の話に花を咲かせていたものの、私だけは皆から離れ、自動販売機でカプチーノを買ってベンチに座っていた。
長いベンチの反対側には白髪の、腰の曲がった白人の老女が私の方を見ていた。
彼女はおもむろに腰を上げると、杖をつきながら私のところに来た。
 「¿Que es ○X◆△.....?」
高齢のためかボソボソと力弱く話すので何を言っているのか解らなかったけれども、カップを指差していることから、これが何かと聞きたいのだろうことは判った。
 「カプチーノ。」
と答えると、彼女はまだ湯気のたつ泡にまみれたカップの中を覗き込み、手で鼻の方へ煽いでその香りを味わった後、また聞いた。
 「¿Donde ◆○X□......?」
やはり彼女の言う言葉は理解出来ない。
聴き取れないというよりも、まるで知らない言葉を話しているようにも思える。
何処から来たのか尋ねられているのかと思って、ハポン(日本)と答えると、がぶりを振って「No!」と言う。
もしかすると彼女は私の知らないカタルーニャ語(バルセロナ地方の方言)を話しているのかと思い、
 「カタルーニャ語は分からないんだ。」
と話すと、また「No!」と言われた。
もう無視して離れようかと諦めかけていると、彼女は私のカップと後方や遠方を交互に指差し、ようやくこのカプチーノをどこで買ったのかを訊ねてるのだと理解した。
私は彼女をすぐそばの自動販売機まで連れて行ったが、彼女は一向にお金を出そうとしない。
なにか困惑した表情で私を見つめた。
 「¿Como.....?」
なるほど、彼女は自動販売機での買い方が分からないのだと察し、カプチーノのボタンを指差し、80ペセタとデジタル表示された金額を出してこの穴に入れるんだと手振りで説明した。
彼女はゆっくり50ペセタ硬貨、10ペセタ硬貨と順に入れていったが、あと10ペセタになって機械は彼女のお金を吐き出した。
何度入れても吐き出してしまう。
彼女は驚きと焦燥を顔に浮かべて私を見つめ、無言で助けを求めた。
吐き出されたコインを見ると、5ペセタ硬貨なのだった。
彼女の財布にはあと5ペセタ硬貨2枚しかない。
そこで私はカンビオ(両替)しようと言って、彼女の5ペセタ2枚を取り、私の財布から10ペセタ硬貨を出して彼女の手の平に乗せた。
そして彼女がその硬貨を自動販売機に入れると、今度は吐き出されることもなく、
間もなくカップが落ちて液体を注入する作動音が聞こえた。
出てきたカプチーノを手に取った彼女の満面の笑顔と言ったらまるであどけない子供のようで、私は私で、理解し合えたことが何よりも嬉しく、二人して笑顔で喜びを分かち合った。
コトバが通じなくても、キモチを通わせればいつか必ず解り合える。
言葉は違えど中身はおんなじ人間なのだ。


国際化とはどの国とも公平な立場で手を取り合うこと。
そのためには互いの国の誇り=言語を尊重し合うことが不可欠。
にもかかわらずニッポン人は自国を誇れないだなんて、恥ずかしい限りだ。
英語を無意味に怖れるな。
英語を話せない自分を恥じる前に、自国について何も語れない自身を恥じよ。


ぶっちゃけ、日本で英語を話すガイジンが間違えてるんです。
なんて悟った私は、こー見えて外国語大学卒です。

(今日のしゃしん:そら色の船 at 日高/和歌山)
070516

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April 30, 2007

今年のゴールデンウィークは。


ゴールデンウィークを間近に控えて、我が家は早くも年末の旅行を検討中だったりする。
日本就航55周年を迎えるKLMオランダ航空のキャンペーンをやってるNOTAM
すっかり感化されて、気分は超ヨーロッパムードに。
オランダへ行ってナインチェ(日本ではミッフィー)に会いに行こう!
と思ってたらKLMはスターアライアンスじゃないのでマイルが貯まらない。
ならばルフトハンザ航空でフランクフルトを経由するか。
でもせっかくドイツ行くんなら、宮本輝の「ドナウの旅人」ばりに列車でプラハ辺りまで行ってみたい。
なんて考えていたら、ドイツもオランダも妻は行ったことがあるので、
いっそ行ったことのないインドにしよーかという意見まで出て、もはや無限ループ状態。

そんな話をしておきながら、来年の盆休みの計画も同時並行で進行中。
ちなみに来年のお盆は両方の母を連れて4人でスペインを旅行しようか、と。
何年も前から母がスペイン旅行を熱望していたため、私と母との二人旅計画を妻に話したところ、それなら私の母も連れて行ってあげたい、ということになったのだった。
しかし今年で66歳になる母にはバックパッカー並の安宿は精神的にも体力的にも辛かろう。
立派なホテルに泊まるならパッケージツアーが断然安い。
ならばパッケージツアーを申し込んで、途中から別行動するのも一つの手かもしれないけど云々…
考えてるだけでGWを過ごしてしまいそうな気がする。


今から思い返すと、私の初めてのスペインはパッケージツアーだった。
卒業をまぢかに控えた大学4年の2月、当時のカノジョ=現在の妻と行ったのだが、パッケージツアーというのはあれが最初で最後だった。
やはりヨーロッパというだけあって金持ちそうな奥様がたが多く、
私は今までどこそこに何回行ったとかやたら自慢しあったり
マドリッドにある高島屋でやたら高そうなモノを競うように買ったりと、
見ていて疲れることこの上なかったのを今でもよく憶えている。

もう一つよく憶えているのは、出発の日の朝、目を醒ますや否やすぐにトイレに駆け込んだこと。
胃がぞうきんを絞るように収縮し、強烈な痛みと共に嘔吐した。
いわゆる胃腸風邪というヤツだったのだろうけど、だからと言って旅行を諦めるわけにもいかず、すぐに荷作りして出発。
あんのじょうカノジョに伝染してしまう。
ツアーの内容は、マドリッド(2泊)→コルドバ→セビーリャ(1泊)→グラナダ(1泊)
→ミハス→バルセロナ(2泊)→帰国 …だったと思う。
しかし私から伝染された風邪でカノジョがダウンしたため、
私らはセビーリャでパーティーから離れて別行動することに。
早朝にバスで出発する一行を見送り、私らは数時間後に列車で次の街・グラナダへと向かった。

そのとき車窓から眺めた景色は、今ではほとんど思い出せない。
ただ私に何か吹っ切れるきっかけを与えてくれたような気がする。
見知らぬ街を歩く心細さとうらはらに湧き起こる抑えようのない未知に対する
ドキドキとワクワク。
道を人に尋ねまくり、見かねて手を差し伸ばしてくれる人の親切を受け、
二人で論議を重ねながら、深夜、グラナダにてツアーガイドと再び合流できたときの安堵と、終わりを迎えた冒険に対する寂しさが、私を次の旅へと衝き動かしたのかもしれない。
その翌年、私は一人でタイ国境まで行き、メコン川を挟んでラオスの大地を目の当たりにし、しばらくラオスにハマるきっかけとなる。


今年のG/Wは久しぶりにずっと日本にいる。
昨年のG/Wはミャンマー、おととしはインド、3年前はラオス(2回目)だった。
今年はせいぜい1泊2日で香川県に住む友人夫婦を訪ね、
讃岐うどんを食べて帰るていどの予定しかない。
次の旅にそなえてドキドキとワクワクを温存することにするか。


(今日の写真:ミハスのうら道 at ミハス/スペイン)
070430

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January 29, 2007

Stray Sheep


孔子は齢五十にして天命を知ったと言う。
論語を学習した高校時代はその遅さに驚いたものだったが、
新年を迎え今年で33歳になろうとしている自分自身を省みると、
やはり孔子はスゲェと思わずにいられない。
五十まであと17年。
五十どころか死ぬまでに天命を知り得る自信がない。

全人口約1億5千万人のこの日本で、
一体どれだけの人間が,己を知っていると言えるだろうか。
この世に生まれて来た理由、自身の存在意義、そこまで大袈裟でなくてもいい、
自分が何をしたいのか、本当に理解している人間はごく僅かに違いない。

人は希望だけで生きていけるものではない。
諦観や妥協は世を生きる上で生まれた知恵と言えよう。
環境や状況が希望の芽を摘み続け、いつしか望むこと、あるいは考える習慣すら
失ってしまう。
そういう意味において、妻は己を熟知している。
私は、何がしたいのだろうか。

ユダヤ人の荒野彷徨に想いを馳せる。
モーゼに率いられたユダヤ人たちはエジプトを脱出し、
荒野を約40年間さ迷った後、ようやく約束の地・カナンに辿り着く。
しかしエジプトからカナンまでの距離は、実はそれ程遠いものではない。
徒歩であっても、長く見積もって2週間もかからない程度の距離に過ぎない。
彼らの意志の弱さ、愚かさが何度も道を迷わせ、誤らせたのだった。
その様はまさしく飼い主を失った迷える羊。
夏目漱石はその著『三四郎』でストレイシープ(迷羊)と何度も書いた。
我々もまたストレイシープ。
道を求めて旅を続ける。

正月は妻と二人でスペインへ渡り、ミハス(Mijas)で数日を過ごした。
太陽海岸を望む白壁の小さな村。
老人が多く、過疎が進んでいるのか村の中では売家が目立った。
村の収入源は9割方観光に依存しているようだが、その割に宿泊施設は乏しく、
ホテルと呼ばれるものは1軒しかない。
あとはオスタルと呼ばれる民宿だけ。
それもそのはず、村を訪れる観光客のほとんどはオプショナルツアーか
エクスカージョンでちょろっと寄り道するぐらいでしかない。
ミハスと言えばキャノンのデジカメ「IXY」のCMで撮影された場所でもあるが、
テレビで放映された美しい坂道から一歩離れると、
着飾っていない日常を垣間見ることが出来る。

村ですれ違う住民はほとんどが老人である。
現役を引退し、もはや何もすることがないのか、
家に居場所のない老人が朝からバル(Bar)で酒をひっかけては
スロットマシーンに興じている。
私と妻の行きつけのバルはまさにそんな老人の溜まり場であった。
そのバルを経営するのもまた年老いた老夫婦。
セニョーラ(奥さん)が朝の掃除を終える時間を見計らって
いつもの面子が集まってくる。
何も話さずただエスプレッソを飲んですぐに出て行く老人、
何も言わなくても「いつもの」が出される老人、
スロットを回す老人、話好きな老人。
店の主人などは手酌でワインを注いではタバコを吸い、
セニョーラが掃除した床に灰を落とす。
彼女はそれを見て怒るわけでもない。
何もかもがルーティンな毎日。
彼らはどう考えているのだろうか。
彼らは幸福なのだろうか。

朝、妻と二人でバルのカウンターに並んで座った。
彼女はカフェ・コルタード(ミルク入りエスプレッソ)とサンドウィッチ、
私はカフェ・コン・レチェ(エスプレッソ:牛乳=1:2)とタパス(小皿料理)
を注文した。
タパスは、ショーウィンドウにバットに盛られて並ぶ6品から選ぶ。
 「このポテトのと、このトマトソースと鶏肉の。」
と指差すと、
 「こっちは"Patata de Pobre"(貧乏人のポテト)、こっちは"Pollo de Sangre"(血の鶏)って言うのよ。」
とにこやかに説明してくれた。
その2品を小皿に盛り、バゲットを料理の上に乗せて出来上がり。
どれも美味であった。

スペインはまたコーヒーが美味い国でもある。
スターバックスなどアメリカ資本の優等生では真似できない、
クリアではなく、ヨーロッパ独特の濁ったエスプレッソと乳脂肪分の高い牛乳。
悪く言えば泥臭い、言い換えるなら濃厚な薫りに、
欧州の長く深い歴史を覚えずにはいられない。

スペインのコーヒーと言えば基本的にエスプレッソ。
エスプレッソに砂糖を山盛り入れて掻き混ぜないのが“通”の飲み方だと
何処かで聞いた。
苦くてたまらない黒い液体が、やがて甘味を帯び、
最後には甘ったるくて堪らなくなるその変化が人生と似ていると言う。
イタリア人だったかもしれない。

そう考えれば成る程とも思えて来る。
つまりバルに毎日集うあの老人らは、
いま人生の最も甘い部分を堪能しているというわけだ。

ならばこうも言えるだろう、
やがて誰の上にも訪れる死は、人生という名のフルコースにおけるデザートなのだと。
焦ることはない。
生き急ぐことも、ましてや若くして早々と絶望することもない。
甘いデザートが運ばれて来るまで大いに迷えばいいのだ。

甘く麗しい死よ来れ。


(今日の写真:陽が昇る側の出口 at ミハス/スペイン)
070129

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July 24, 2006

ナカタとの思い出


人生とは旅である―――英雄を馬鹿にするわけではないが、
今さら誰も口にさえしない使い古された常套句を敢えて語ったのは、
語るに相応しい強さを有しているからだと考えていいのだろうか。
 「世界のナカタ」
思えばあの頃の彼はイタリアのセリエAに籍を置いていたのだろうか。
アナウンサーが興奮ぎみに「ナカタ」の名前を連呼していたのを聞いたのは、
アルへシラスのうらさびれたレストランだった。

イベリア半島は大きな台地である。
おおよそ「スペイン」と言われる街々はその台のてっ辺に、
首都マドリーを中心に点在している。
山らしい山の無いその大地では、風が常に吹き荒び、風車を回す。

マドリーから超特急「AVE」で飛ぶように走ること約1時間半、
かつて西のアテネとまで謳われたコルドバで2泊した後、
急行列車でスペイン最南端の街・アルヘシラスを目指した。
列車はしばらく大地を走るものの、後半はひたすら坂を下り続ける。
どこまでも続く下り坂に、誰もが「スペイン」から降りて行くことを実感する。
下ること約2時間、坂を下り切ったところで鉄路も終わる。
終着駅・アルヘシラス、そこはもう「スペイン」ではない。
街の至る所にアラビア文字が溢れ、街を行き交う男たちは肩から足まで
すっぽりと被る“ジュラバ”という服を身に纏っている。

ジブラルタル海峡を挟んで北アフリカのモロッコと対峙する町。
かつてイベリア半島のほぼ全域を制圧したイスラム軍は
この町から上陸したのだろうか。
今はただうら寂しい港町に過ぎない。

中東系のセニョーラが経営するオスタルに3泊分申し込み、夕食に出かけた。
宿から少し歩いた所にある、あまり流行っているようにも見えない
板張りのシーフードレストラン。
テレビが置かれ、ネクタイを締めたアナウンサーがニュースを読み上げていた。
 「Ensalada de Hueva」
と書かれたメニューから、ゆで玉子を刻んだサラダだろうと思って注文した。

料理が出されるまで待っていると、他の客がテレビのチャンネルを回した。
サッカーの試合が映された。
スペインの選抜チーム対イタリアのセリエA。
セリエAの選手がドリブルでぐんぐんとスペインチームの陣地に斬り込んでいる。
アナウンサーが興奮ぎみに一人の名前を連呼していた。
 「ナカタ!ナカタ○×▲□※…!!ナカタ!ナカタ!」
こんな辺鄙な所まで来てテレビから流された日本人の名前を耳にし、鳥肌が立った。
チャンネルを回した男たちが話しかけてきた。
 「ヘイ!ハポネス(日本人)かい?」
 「そうです。」
 「言っとくがな、スペインのナショナルチームは弱いんだ。レアルマドリードならナカタなんかメじゃないんだぜ。」
こんな地域の住民にまでナカタの名前が憶えられているのは驚きだった。

しかし何よりも驚いたのは、運ばれた料理だった。
卵サラダは卵サラダでも、私のニガテな魚の卵のサラダなのだった。
鶏の卵は「huevo」で男性名詞であり、
魚の卵は「hueva」で女性名詞であると、
持って来ていた辞書を後で調べて分かった。

以来、ナカタの名前を聞くたびにこの日のサラダを思い出す。
語るだにくだらない、私とナカタの思い出。

じゃー語るなよ。


(今日の写真:新聞と老人 at タイ国鉄車内/タイ)

060605

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September 14, 2005

インドからスペインへ


アサオです。

今日の昼休みに観てたNHK「お昼ですよ ふれあいホール」でバニラムードが
演奏した『スペイン』を聴いて、忘却の彼方にあった記憶が急に甦った。
バンコク発カルカッタ行きのインディアン航空で隣りに座ったスペイン人のマルコ。
彼は、彼自身の源流がインドにあると信じ、インドへ行くのだと言った。

スペイン人は皆産まれる前からフラメンコを聴いて育つ。
そのフラメンコをイベリア半島に持ち込んだのがジプシー。
ジプシーの起源はインド。
だからインドに行くのだ、と彼は誇らしげに言った。

(ちなみに今はジプシーと呼ばず<ロマ>と呼ぶらしい。
 ジプシーとは「エジプトから来た」という意味の
 <エジプシャン>が変化したしたものだとか。)

正直なところ、私は欧米諸国にはまるで興味がない。
旅をしようとも思わない。
しかしスペインだけは例外。
何故だろうと考えたら、スペインはどこかアジアと共通しているのだ。

歴史的に見て、イベリア半島はイスラム教勢力にほぼ全地域支配されている。
南米からインディオが奴隷として何万人も流入し、
さらに放浪の民・ロマの到着。
ピレネー山脈で閉ざされたイベリア半島内で混血が次々と生まれ、
欧州でも独自の文化を形成することになったのに違いない。


グラナダのアルハンブラ宮殿の足下を流れる川を伝って、
アルバイシン地区の貧しい住宅街を歩いた。
居並ぶ家々はボロく、中には山肌をくり抜いて造った家もある。
何処かからフラメンコが聴こえてくる。
ここで女性に話しかけられた。
もうすぐフラメンコのショーをやるから観に来ないかと。
ガイドブックの地図からも外れたこんな所に旅行者は他にいない。
私は彼女の容姿に驚いて警戒心を抱いた。
黒い髪に緑がかった茶色い瞳、彼女の容姿からは明らかに西欧ではなく
イスラームの香りが漂っていた。
初めて目の当たりにしたイスラームに私は恐れた。
常識を全く異にする人種ではないか。
言葉が通じても意思の疎通は出来ないんじゃないか、と。
きっと日本人が初めて西欧人を見て鬼と思った感覚と同じに違いない。
もし私一人だったなら付いて行ってたかもしれない。
しかしカノジョを連れていたため危ない目に遭わせるわけにいかない。
魅力的だけど、ごめんなさい、あまり時間がないので。
そう断って先を急いだ。
結局スペインでフラメンコを見ることはなかった。

それから数年経って、三重にあるパルケ・エスパーニャへ行った。
フラメンコのショーをやっているという「カルメンホール」へと急ぐ。
パルケの中ではスペイン人らが広場で勝手に集まって
勝手に本格的なフラメンコを踊ってる。
勝手にやってるだけだから勿論見ほうだい。
その気になったら中に混ぜてもらえる。
しかし「カルメンホール」は完全予約制だと言うのだから余程すごいんだろう。
そう思っていた。

……撃沈。
……カネと時間を返してほしい。

パルケ・エスパーニャ、悪い評判ばかり先行してますが、
けっこう本格的で私は好きですよ。

も一回行ってフラメンコのパルマ(手拍子)やりたい。。。


(今日の写真:この辺で話しかけられた at グラナダ/スペイン)

050914

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