初インド旅記録
April 25, 2013
Epilogue.
列車が出発して間もなく世界は夜に包まれた。
2012年12月30日、17時30分チェンナイ・エグモア駅発カニャクマリ・エクスプレス。
かつてマドラスと呼ばれた南インド最大の都市チェンナイから夜を通してインド亜大陸最南端の聖地・カニャクマリを目指す。
「デリーで子供に取り囲まれて大変だったんですよ。」
奇遇にも同じ車輌に乗り合わせた日本人青年が言った。
1等寝台車は通常4人分のベッドで構成されるコンパートメントなのだが、私と妻の部屋は2人用だった。
コンパートメントは一車輌に4.5室。
まさか気を遣われた訳ではあるまいが、私らは良い具合に半端な0.5室分を宛てがわれたのだった。
「空港からオートリクシャーで市内に向かったんですけど、信号で止まった時に群れになって寄ってたかられて…」
見知らぬインド人3人と相部屋になった彼は、珍奇な場所で思いがけず居合わせた我々の部屋に話しに来ていた。
インドでは鉄道の座席は発券時に指定出来ず、発車前に各車両の入口に乗客名と座席番号が貼り出される。
そこで私と妻は我々以外の日本人名を発見し、あとで遊びにおいでと声を掛けたのだった。
「学生さんの貧乏旅行ならともかく、外国人は多少高くてもプリペイドタクシーに乗らないと。インドは初めて?」
3人で下段のベッドに腰掛け、駅の売店で買った菓子をつまみながら話す。
「はい。普段はヨーロッパばかりなんですけど、一度インドには行きたいとずっと思ってて…。で、初めてのインドであんな目に遭って、1日目で萎えましたね。」
ははは、と笑いながら話が弾む。
「インドにはもう何回も来てるんですか?」
彼の問いに、初めてのインドがもう何年前だったのかと思い返してみる。
もう遠い昔のことなのか、何時のことだったのかまるで思い出せない。
鮮明に脳裏に浮かぶ雑然とした街並みのコルカタ、バラナシの牛、マルコ…。
カーテンの隙間から闇夜が覗く。
列車は軽快に音を立てながら、南へと一途に走り続ける。
初めてのインド旅行を含め、インドには4回訪れた。
コルカタとバラナシを訪れた後、前妻と1度、仕事で1度、そして今回のカニャクマリで4度目になる。
帰国してから調べたところ、初めてインドを訪れたのは2005年、前妻との結婚を控えた時分だった。
そして今回のインド旅行も二度目の結婚を二週間後に控えている。
まるで何かの儀式として訪印している訳ではないのだが。
私はインドの魅力には取り憑かれなかった。
オートリクシャーに揺られてガンガーに架かる橋を渡った夜を思い出す。
「ジャパーニー、これがガンガーだ。」
と自慢げに話す運転手とは裏腹に、ガンガーの黒い川面に並んで映る燈火を眺めながら、私はメコンを懐かしんだ。
それだけに、私は1年に1度は必ずラオスを訪れている。
インドを訪れた者は好むか嫌悪するかの二極に分かれると聞く。
前妻は二度と来ないと言う程にインドを憎んだが、私は、どちらかと言えば好きかもしれない程度で終わった。
にも拘わらず、ひとたびインドと聞くだけで危険で甘美な憧憬に誘われるのは何故だろうか。
それがインドの魅力なのかもしれない。
夜8時を過ぎた頃、特急カニャクマリは大きな駅に5分ほど停車した。
出発して暫く、ドアがノックされた。
チェンナイを出発する時に注文した弁当だった。
アルミホイルの蓋を剥ぐと、インド風炊込みご飯=ビリヤニが敷き詰められていた。
米粒の隙間から中に埋め込まれた骨付きの鶏肉と茹で卵が覗いている。
スプーンが無いからインド風に手で食べ始めると、プラスチックの小さなスプーンが米粒の中に埋められていた。
「ひと口どうですか?」
と青年に勧めたが、
「いえ、僕はさっき自分の部屋で食べて来たので…。」
と言って彼は菓子をつまんだ。
ギラつく太陽、怒声、騒音、砂煙、目に焼き付く総天然色の神々…
歌手や俳優のブロマイドと並べて売られるシヴァやヴィシュヌ、ガネーシャ等の神々、あるいはサイババの写真。
通常相反する聖と俗が入り交じるインドが最も天国に近い国と呼ばれる由縁であり、そこに魅力を見出す旅行者も多い。
しかしながら私自身がクリスチャンであり、何を今さらと思える程に神を身近な存在と信じる人間であるから、なんら刺激を覚えない悲しい結末となったのだろうか。
否、それだけではない。
初めてのインドを振り返る度に思い出すあのスペイン人・マルコ。
彼の強烈な個性はインドのそれを遥かに凌駕し、今でさえ私の記憶から決して薄れることがない。
バンコクからコルカタへ向かう機内で、「もう一杯いかがですか?」とキャビン・アテンダントが勧めたにも拘わらず、彼女らは一向にビールを持って来なかった。
「信じられるか?ヤツら忘れてやがる。」
と言ったのち、彼は私の制止も聞かず途中寄港のガヤーへ下降している最中に隣りの乗客を跨ってギャレーまで行き、満面の笑みを浮かべて勝ち取った2本のビールを掲げて戻って来た。
もちろん、酒に弱いから要らないと言った私の言葉も彼には届かず、2人で乾杯する羽目にもなった。
自己中心的な人間は大抵嫌われるものだが、その範疇を大いに超越するスーパーポジティブシンキングを持ち合わせた彼には、嫌悪感を通り越してただただ驚かされるばかりだった。
深夜特急は闇夜を裂いて今日から明日へと突き走る。
自室に戻ろうと我々のコンパートメントを辞した青年が、再びドアをノックした。
同室の乗客らがカギを掛けてしまい、閉め出されたと言う。
彼のコンパートメントに行ってみると、室内の照明は消え、ひっそりと静まり返り、聞き耳を立てると一人の鼾が響いている。
さすがに扉を強く叩いて起こしてしまうのは憚られる。
朝になれば戻ればいいからと、我々は彼を再び迎え入れた。
「お前は物分かりが良過ぎる。」
過去に父からそうたしなめられたことを思い出す。
こんな時マルコなら、憚ることなく中の客を叩き起こしていたに違いない。
「You must change.」
彼の言葉が鮮明に浮かぶ。
あれから私は自分自身を変えることが出来ただろうか。
コルカタから出国したあの後、私はバンコク・ドン・ムアン空港でチェックインカウンターに並んでいた。
世界的なハブ空港だけに、洋の東西を問わぬ様々な人種の乗客が皆、大きなスーツケースや複数の荷物をトロリーに載せて所狭しと密集していた。
どのカウンターにも長蛇の列が出来ていたが、私の並んだカウンターは特に長かった。
見れば中年の欧米人客がカウンターに詰め寄り、埒のあかぬ論議を繰り広げている。
相手をしているのは若い女性スタッフで、独りで奮闘している。
5分待てど10分待てどもまるで解決せず、苛立ちを募らせた後続の客らは、一人、また一人と他の列に回り、ついに私が最後の一人となった。
見れば彼女から少し離れた後方で年配のスタッフが数人突っ立っている。
中年欧米人の問題はまだまだ解決しそうに見えない。
こんな時、マルコならどうするだろう。
腹立ちの余り、恥も醜聞もかなぐり捨てて私は大声で怒鳴ってみた。
「How long should I wait here !?
Why noone don't help her !?」
私の声がホールに響き、世界中の人間が私を見た。
呆然と突っ立つスタッフも私を見た。
しかし結果は何も変わらなかった。
それで構わない。
世界は結果だけで動いている訳ではない。
結果に至るまでのプロセスこそ時に重要なこともある。
私は殻をひとつ突き破ったことに満足を覚え、恥じ入ることも無く他の列に加わった。
溜飲は幾分収まった。
私自身の成長と変化のプロセスという旅。
中学から大学まで、人格形成に最も重要な時間を共有した妻と再び巡り合ったこの奇跡。
インド最南端の聖地で初日を二人で迎え、私の旅はここに終わる。
March 08, 2013
Kolkata, Again.3
夕刻に降ったスコールが昇華し切らぬ内に迎えた蒸し暑い夜。
ニューマーケットの雑踏。
纏わり付く人いきれ。
混雑した通りで擦れ違う度に接触する汗に濡れた他人の肌、鼻に衝く体臭に苛立ちを覚えずにいられない。
日本の家族や友人らへの土産物をと考えて複数の店舗を収容したニューマーケットまで来たものの、どの店でも「ジャパーニー」と気持ち悪い笑顔を振りまく店員が執拗に話し掛けて来る。
落ち着いて物を見ることも出来ない。
いい加減に腹の立った私は、ケチで有名と聞く韓国人になり済ますことにした。
「ヘイジャパーニー、コニチワ。」
「NO ! I'm from Korea ! Never call me Japanee !」
と言ったところで、
「Oh... ko,コニチワー。」
と少し発音を変えて話して来る程度なので、彼らにとっては日本人も韓国人も余り大差が無いのかもしれない。
チョウロンギ通りも人で溢れ、歩道脇に居並ぶ屋台が狭い歩道を更に狭める。
思うように前に進めず苛立っているところで、不意に背後から声を掛けられた。
「ヘイ、ジャパーニー。」
若い男の声。
振り返ると、私と同い年ぐらいの大人しそうな青年だった。
「今ひとり?一緒に歩かないかい?」
またこの手か、と嫌気を覚える。
思い返すと一日目に引っ掛かった時もこの辺りだった。
「嫌だ。」
そう言って前に向き直って歩くと男は話しながら付いて来た。
速く歩いて振り解きたいが混雑ぶりに思うように進めない。
「僕はネパールから買い出しに来たんだ。チャイでも飲まないかい、ジャパーニー?」
「要らない。」
「ジャパーニー、おみやげは買ったかい?良い店を知ってるんだ。ぜひ紹介したい。」
「要らない。」
角を折れてチョウロンギ通りから外れても男はしつこく付いて来る。
「腹は空いてないかい、ジャパーニー。」
余りのしつこさに苛立ちも募り、私は立ち止まって真っ直ぐ彼に向き直った。
「二度と俺をジャパーニーと呼ぶな。俺は韓国人だ。俺の名前はパクと言うんだ!」
そう言ってしまえば諦めてしまうだろうと思ったが、彼は目を丸くして驚いたように見せ、そして言った。
「コリアは北かい?それとも南?」
「当然南だ!」
どうやら何も効果は無かったらしい。
最早この様な輩にはまともに相手をせず無視に限る。
再び早足で歩き始めたが男はしつこく付き纏う。
「ヘイ、コリアンガイ、おみやげは買って帰るんだろう?」
「君は英語が上手だね。」
「インドは初めてかい?」
色々と聞いてくるが何も応えずまた角を曲がったところで、「ヘイ、ジャパーニー。」と突然左脇から声を掛けられた。
「ジャパーニー、僕を憶えてるかい?」
立ち止まって見ると、声の主は一日目に私を引っ掛けた自称バングラディシュ出身の青年だった。
彼は落ち着いた声で話した。
「僕はあの朝君のホテルまで行ったんだ。なのに君はチェックアウトした後だった。」
もはや観念するしかない。
私は素直に謝ることにした。
「ごめん。実を言うと、あの日本語を話す男が良い人間に思えなかったんだ。」
「…良い勘してるね。約束を憶えてるかい?今度は僕にチャイを驕ってくれることになっていた。」
「もちろん憶えているさ!チャイを飲みに行こう。近くに良い店は知ってるかい?」
彼は空に映る地図でも見るかのようにやや上を向いて思案した後、「こっちだ」と言うように右手を振って合図した。
自称ネパール出身の男はいつの間にか何処かへ去っていた。
ナトリウムランプの黄色い灯りに照らされた夜道を連れ立って歩く。
薄暗いけれどもぽつりぽつりと点在する店が昼白色の光を投じ、ナイトライフを楽しむ若者が闊歩する。
気怠そうな若い店員の頭上で煌々と輝くパステルカラーの看板だけが、若い男女を呼び込まんと奮闘している。
彼が案内したチャイ屋は、そんな中にありながら、コンクリートを打ち付けただけの地味な店だった。
適当に並べられたボロいテーブルの下に押し込まれた丸いパイプ椅子を引き出し、約束通りチャイを2杯注文した。
程なくして緑がかった耐熱グラスに注がれたチャイが運ばれ、ずっと無言だった彼が口を開けた。
「日本も今は暑いのかい?」
「いや、今は一番過ごしやすい時期だ。日本が一番暑いのは8月さ。」
「インドとは違うんだね。暑い時期で何度ぐらい?」
「一番暑くて36℃ぐらいだと思う。」
ひと口チャイを飲み、また口を開いた。
「日本では月に幾らぐらいサラリーを貰えるんだい?」
「25万〜35万円ぐらいかな。」
「ドルで幾ら?」
「2,000〜3,000ドル。」
「そんなにも…」
「でも税金も物価も高いから、ちっとも金持ちにはなれないのさ。」
「日本の人口はどれぐらい?」
「だいたい1億5千万人ぐらい。」
「日本の冬ってどんなの?」
「日本の…?」
「日本では…?」
彼は矢継ぎ早に日本についての質問を繰り返した。
一頻り質問を終え、チャイを飲み干したところで、最後に彼は物怖じるように訊いた。
「日本のお金を貰えないか?」
これはインドで出会った数人からも訊かれたのだが、残念ながら日本円を入れた財布はホテルのセキュリティボックスに置いて来てしまった。
「ごめん、いま日本円は持ってないんだ。代わりにこれはどうかな?」
と言ってバンコクで買ったドラえもんの腕時計を出してみた。
やはりインド人はドラえもんを知らないのか、彼は腕時計を持って不思議そうに見回した。
「これ、本当にいいのかい?」
とても手に入らない物を貰えることを驚いたように彼が尋ねた。
「君が気に入ったのなら、喜んで。」
「Thank you. Thank you very much.」
よほど嬉しかったのか、彼は感謝の言葉を繰り返した。
店を出て彼と別れた。
彼が本当にバングラディッシュの出身かどうかは最後まで分からなかったが、最後に彼と再会できたこの縁に、私の初インド旅は思い残すことなく締め括られた。
「Good-bye.」
と手を振る彼の手には、早くもドラえもんの腕時計が巻かれていた。
January 19, 2013
Kolkata, Again.2
宿命と書いて【さだめ】と読む。
即ち神に定められた運命。
結局人は神の敷いたレールから逃れることは出来ないのか。
2010年1月1日を以って離婚した私だったが、2011年の正月をバンコクで、2012年はマドリード、そして2013年はインド亜大陸の最南端・カニャクマリでと、それぞれの新年を新たなパートナーと迎えて来た。
新たな―――もとい、本来のあるべき形に戻っただけなのか。
それにしてはひどい遠回りをさせてしまったことを悔いるものの、それはそれで必要なプロセスだったのかも知れない。
誰も信じないだろうが、高校生の頃にいずれこうなる事は予見していた。
運命の人と言えば肯定的に聞こえるものの、私にとって運命とは受け入れ難い現実であり、傲慢な神の手から逃れようと約20年も必死に足掻き続けて来たのだった。
しかしながら元の鞘とは能く言うもので、いざ受け入れてみるとその居心地は良く、平安な心持ちに包まれる。
何故もっと早く気付かなかったのか。
俗なる人間ゆえ、モーゼ率いる烏合の群れの如く荒野を彷徨うことになったのに違いない。
神の定めたカーストを従順に受け入れる彼らは、世俗より一段高い所で生きているのかも知れない。
翌朝、ホテルの前の国道でタクシーを拾い、ダムダム駅から地下鉄でサダルストリートに向かった。
本来ならこの日にバラナシからコルカタに戻って来る予定だっただけに何もすることが無く、とりあえず心もとない現金を両替するついでに土産物を探す必要があったという理由もあるが、それにも増してまたもう一度あの美しい路上生活者に会いたかった。
昨日100ルピー紙幣を渡したものの、彼女の様な身分では却って使いづらいのではないだろうか、釣銭が無いからとちょろまかされたりはしないだろうかなどと心配し、今日の両替でもっと細かく崩してもらおうと考えた次第だった。
エスプラネード駅で地下鉄を降り地上に上がると、空は暗雲垂れ込め、地上では生温かい風が吹き、今にも大雨の降る雰囲気が漂っていた。
間もなく大粒のスコールが猛烈にサダルストリートを襲ったが、足早に歩いた私はなんとか両替屋の軒下に滑り込めた。
空は陽が落ちた後のように暗くなっていた。
強化プラスチックのクリアボードの前に座る親爺に20ドル紙幣とパスポートを渡すと、彼はパスポートの顔写真と私とを怪訝な目で見比べ、結局何も無かったように引出しから札束を出して黙々とルピー紙幣を数え始めた。
旅行前に二枚刈りに頭を丸めたものだから、訝しく思うのも無理はない。
彼は黙り切ったままパスポートを私に返し、次いでルピー紙幣を差し出した。
「この100ルピーを10ルピー紙幣に崩して貰えないか?」
と訊くと、親爺は訊き返した。
「何故だ?」
昨日会った母子のことを話すと、親爺は何も言わずに10ルピー紙幣を念を押しながら数えるように一枚一枚カウンターの上に押し付けながら重ねていった。
店の外の雨は依然強く、3人の欧米人が軒先に駆け込んで来て雨宿りを始めたかと思うと、両替屋の親爺に「Hey !」と笑顔を見せてまたすぐ走り去った。
好ましく思わないのか、親爺は鼻息を強く吹いた。
10枚の10ルピー紙幣と共に渡された領収証に署名すると、親爺は口を開けた。
「ワシも昔は両替商を自分で営んでいた。それが交通事故で全てを失った。一時は家も無く、路上で暮らした。今では雇われて両替商をやっている。全ては神の思し召しのままにだ。」
そう言って彼は壁に掛けてあるモスクの絵に触れ、その手を額に当てて目を瞑り、祈りの言葉を呟いた。
雨が止んで両替屋を出ると、途中で昨日二人の乞食に連れて行かれた店に寄って粉ミルクを買い、再びインディアン・エアラインへ向かった。
彼女は私を待っていたかのように立っていた―――夫と娘と共に。
夫がいることにも驚いたが、その夫と娘が小奇麗な服装に身を包んでいる事にも驚いた。
彼女は夫に私を紹介し、彼は私の手を握って何度も有難うと言った。
5〜6才ぐらいになる娘も同じく「Thank you.」とはにかみながら微笑んだ。
彼らは粉ミルクのお土産に喜んでくれた。
驚きの余り、結局10枚に分けた10ルピー紙幣は出しそびれてしまった。
これしきの事で彼らを貧困から救ったことにならない事は分かっている。
焼け石に水程度のものに違いない。
所詮は自己満足に過ぎない。
両替商の親爺の祈る姿が瞼に焼きついて離れなかった。
飢えも貧しさも、全ては神の定めたこと。
その真意を理解することなど人間には出来ない。
だから彼らは全てを受け入れて路上で生活しているのだ。
現実に不満を言わず宿命を受け入れるインドの路上生活者こそ、聖なる高みに座している尊敬すべき人々に違いない。
scott_street63 at 04:23|Permalink│Comments(0)│
October 02, 2012
Kolkata, Again.1
本年2012年は日印国交60周年に当たる年である。
その記念の一環として、10月9日〜31日までニューデリーにあるAIFACS(All India Fine Art & Craft Society)にて畠中光享日本画展が開催される。
私は光栄にも氏の絵画22点の梱包から輸送、保険手配までを託されることとなった。
その背景には、母が趣味で描く日本画の師匠として氏と交友を持っているのだが、三年前に日本大使館の要請によりバルト三国で個展を開いた際に母から頼まれ私が輸送を手配した経緯があり、今回もということで氏がスポンサー兼主催者である某大手製薬会社に私を推薦して戴けたのだった。
その栄誉とは裏腹に、スポンサーからの無茶な要望や各業者との交渉は難を極め、そのストレスに暴飲暴食に走る始末。
よくも人は己の主張のみを一貫して他人に押し付けられるものだと、改めて呆れ返る。
人の話は聞かず、むしろ人が話している最中にも覆い被せるように己の話を始める姿は日本の稚拙な国会を彷彿させるが、同時に、インドで出会った人々の面々をも思い出させる。
あの暑い日光の下で衝突する男達の大声、引切り無しに鳴り響くクラクション、巻き上がる砂埃と排気ガス…
開催前日に行われるオープニングセレモニーには私も招待されている。
最低で最高の国インドに今から胸をときめかせずにいられない。
再びコルカタ。
思い返せば疲れ果てていたのかもしれない。
翌朝、コルカタに戻る鉄道の中で私は残り2泊の宿を求めてガイドブックのページを繰り、空港に程近いホテル「Host International」に決めた。
帰りの便が早朝のため空港に近い所が便利なことは確かなのだが、街はおろか日本領事館からも遠い不便な立地に、一刻も早く帰ってしまいたいという臆病風に吹かれたことは否定できない。
ホテルは空港へ真っ直ぐ伸びる大きな国道の脇に隠れるように建っていた。
2階建てのこじんまりとした建物で、庭には屋根まで隠す木が何本も植わっている。
しかしながら王族に仕える近衛兵のような制服に身を包んだ顎髭の逞しい門番が入口に立ち、同じく制服を着たポーターと物腰の柔らかなフロントデスクの対応は一流ホテルにも引けを取らない居心地の良さが感じられた。
チェックインの際にパスポートが無い旨を説明すると、快く了解。
部屋まで荷物を持ってくれたポーターにチップを遣ると、何故お金をくれるのか分からないといった驚きを見せ、スレていな素朴さもまた気持ちが良かった。
周囲に何も無いのが玉にキズか。
日本領事館でパスポートを取り戻した私は、帰りの便のリコンファームのためにインディアン航空の事務所へ向かった。
最寄駅であるエスプラネード駅はオフィス街の中心にあり、夥しい人間がひと言も発さず黙々と歩く光景は日本とまるで大差ない。
インドにいることを忘れてしまう。
むしろインドを異世界として偏見を持ち過ぎていたのかもしれない。
しかしやはり違うことにすぐ気付く。
後続の人間に押されながらところてん式に地上へと踊り出るとすぐ左手にインディアン航空のビルが建っているのだが、右手には赤ん坊を抱いた美しい女性が路上に茣蓙を敷いて座っていた。
地下鉄の出口という雑踏夥しい中で座る若い女性のホームレスは日本では目を見張る光景に違いない。
凝視しまいと考えまずはリコンファームを済ませたが、再び地下鉄へと向かって彼女の前を通り過ぎる際に横目で見てみると、その赤ん坊の顔はクシャクシャの猿のようで、明らかに生後2〜3日と見て取れた。
人々が黙々と足早に過ぎ去る歩道の脇で、女性は汚れた衣服を纏い、膝の上で眠る赤ん坊の背中を優しく叩きながら座っている。
何か…何か自分に出来ることはないか…!
余りにも小さく弱いその嬰児を見て、やたら焦燥感に駆られて考えた。
現金を渡すに越したことはないのかもしれないが、しかし今すぐにでも必要なのは母親の栄養ではないか。
そう思い立って果物屋を探し回り、バナナを一房と100ルピー紙幣1枚を彼女に渡した。
「可愛い赤ちゃんですね。」
と英語で話すと、恥ずかしそうに微笑んで、
「Thank you.」
と答えた。
こんな貧しい人でも英語が通じるのだから驚いた。
「あなたは、この路上でこの赤ちゃんを産んだんですか?」
「Yes...」
信じられなかった。
路上で出産するなんて…!
元気でね、と言って立ち去りながら、目頭が熱くなって涙をこぼしてしまった。
それはともかく日本への土産も買わなければと思ってサダルストリートへ行った。
そう言えばマルコはどうしているだろう?
まだあの宿にいるのだろうか?
そう思って彼の泊まった洋館へ行ってみた。
「すみません、ここにマルコというスペイン人はまだ泊まっていますか?」
と門の前に立っていた男に尋ねてみると、
「マルコ?あぁ、あの男か。奴ならもうここにはいない。マザー・ハウスに行ったよ。」
マザー・ハウスと言えばかのマザーテレサが奉仕活動の拠点としていた場所だ。
そうか、ボランティアに行ったのか。
残念だったが、意外な行動に尊敬した。
「Hey, Friend.」
と背後から声が聞こえて振り返ると、貧しい身なりの皺だらけの女が二人、そこに立っていた。
「よぉ、ジャパーニー。何処に行ってたんだい。」
二人とも不気味にニヤニヤと笑顔を浮かべている。
思い出した、あの時にマルコが連れていた二人に違いない。
「子供たちが腹を空かしてるんだよ。ちょっと米を買ってくれないかぇ。」
そう言って彼女らは私の腕を引っ張って米屋のような店へと連れて行った。
「ヘイ旦那、米をおくれ、米。」
と店の男に言って、ビニール袋に入れた米を二つ受け取った。
男に言われたままの金額を私が支払うと、また彼女らは言った。
「ダル豆もおくれ。」
今度は先よりも大きめの袋にまた二人分。
さらにひよこ豆と小麦粉まで注文し、最後に粉ミルクまで注文したところで堪らず言った。
「ちょっと待て!どれだけ払わせるつもりだ!?」
私の大声に彼女らは一瞬目を丸くしたが、またニヤニヤと笑い出した。
「ヘイ、ジャパーニー、カネ持ってるんだろ?」
「お前たちは勘違いしている。日本人は金持ちなんかじゃない。国は金持ちだけど個人は金持ちなんかじゃないんだ。」
「じゃーお前はなんでここに居るんだ!?」
今度は女が声を荒げた。
「私らは毎日食べるのが必死なのに、お前さんはこんな所まで旅行に来てる。金持ちじゃなくて何だってのさ!」
「私らはフレンドだろ?払うのが当たり前じゃないか。」
もう一人も加勢して言ったところで堪忍袋の緒が切れた。
「お前らなんかマイフレンドじゃない!!」
私は後も見ずにその場から早足で立ち去った。
地下鉄の吊革にぶら下りながら考えた。
あの地下鉄の出口に座っていた女性の聡明な顔立ちと謙虚な振舞いに比べ、彼女らの汚い、文字通りの乞食根性は腹立たしく思えてならなかった。
だが、「お前はなんでここに居るんだ!?」という声は今でも耳から離れない。
そうなのだ、日本の中ではそうではなくとも、世界から見ればやはり自分は金持ちの部類なのだ。
金持ちであることが罪悪なのか?
社会主義的な観点から富の分配は必要だとは思うけれども、だからと言って皆との平均化を図る程までは与えたくない。
そうだ、結局自分は他者よりも優位を保っていたいのだ。
なんだかんだと御託を並べたところで、つまり自分はケチな強欲ジジイと変わらないのだ。
自分という人間の小ささを思い知る。
こんな時マルコならどう言うだろう?
そうだ、だから彼はマザーハウスに行ったのかもしれない。
きっと彼はインドに来て彼の持つスーパーポジティブシンキングを打ち砕かれたのだ。
マルコと話したことを思い出しただけで、後味の悪さが和らいだ。
激しく彼に会いたくなった。
思い出し笑いを浮かべながら、ふわふわした心持ちで帰途に就いた。
(つづく)
August 14, 2012
A long day in Varanasi. 4
列車は既に入線していた。
座席が決まっていないものだから取り敢えず適当な車両に駆け込み、客室に入らず出発を待つことにした。
簡易な折畳み式の椅子が壁に誂えられており、助かったとばかりに私は荷物を床に下ろして腰を落とした。
扇風機も無いそこでは静かに待っているだけでも汗が噴き出すほど暑く、ペットボトルの水はもはや白湯に近かった。
激しく空腹を感じていたが、疲労の余り食欲が湧かない。
現地の子供に与えて写真を撮らせて貰おうと考え日本から持ってきたパイン飴だったが、ここで初めて封を開け、口の中で転がしてはペットボトルのぬるま湯を口に含み、ジュースにして胃に流し込んだ。
淡いピンクのパンジャビドレスを着た少女が客室から出て来た。
高校生ぐらいだろうか。
ホームから少女と同年代の少年が顔を覗かせ、二人は手と手を取り合った。
少女は少年の胸で泣き崩れ、少年は少女に優しく話しかけた。
ホームを吹き渡る風が桃色のスカーフをなびかせる。
夜の帳に包まれたバラナシ駅に出発を合図する警笛がこだますると、車輌は ごとん と重い音を立て、ゆっくりと進み出した。
少年は片手で手摺りに掴まってもう片方の手で彼女の手を取り別れを惜しんだが、やがて笑顔で手を離し、視界から消えた。
彼女は嗚咽を上げながら身を乗り出して後方を見つめていたが、頃合いを見て客室から出てきた父親がそっと彼女の肩に手を添えた。
轟音が鳴り響き、橋を渡ることを知らせた。
彼女ははっとして、先とは反対側の、私が座っている方の窓の格子にしがみついた。
ガンガーの水面に映る灯火が幾つも並んで闇に浮かぶ。
外をじっと見詰める彼女は、無言でガンガーに別れを告げていたのに違いない。
私も静かに暗い水面を見送った。
バラナシの隣り駅・ムガル=サライを出発すると、列車はスピードを上げた。
暫く停まる駅は無いということだろうか。
夜気を含んだ風が開け放たれた窓から流れ入り、渇きを癒してくれる。
窓から見える風景は草木のシルエットばかりで、あたかも闇を切り裂くように急行列車は走った。
客室からは時々談笑が聞こえて来たが、ここでずっと一人で静かに座っているのも悪くないかもしれない。
そう思っていたところで客室の扉が開き、車掌らしき制服を着た恰幅のいい男が来て私の前に立った。
「Ticket.」
と語気を強めて私の前に手を出して来る。
私は彼に切符を渡しながら立ち上がった。
「座席を指定したいんですけど。」
「あんたの席は?」
「さっきバラナシで買ったばかりで、席はまだ決まってないんです。」
彼は私の切符を一通り見た後、客室台帳のような黒いノートを開いて幾つかページを繰った。
「空いていれば、A/C(エアコン)付き2等寝台がいいんですけど…」
私が追いかけてそう言うと彼は台帳を閉じ、彼が先ほど検札を終えて出て来た客室を指差した。
「あの席なら空いている。」
指の先を眼で追ったが、どこの席か分からなかった。
「どれです?」
「一番手前の左側、扉を開けてすぐの席だ。」
しかし既に6人掛けの席に6人が座っている。
「人が座ってるじゃないですか?」
「かまわん。彼らには別の席がある。」
ホントだろうか?私は恐る恐る扉を開け、座っている6人に聞いてみた。
「車掌がここに座ってもいいと言ってるんですけど、本当にいいですか?」
「Of course. Sure.」
と快く答えてくれたものの、それでも彼らは一向に立ち上がる気配を見せない。
困惑している私を見て、彼らはただニヤニヤ笑っているだけだった。
「…他の席は無いんですか?」
「無い。」
無碍もない返事。
もしもここに座ると彼らから報復のような嫌がらせを受けるんじゃないだろうかと恐れて、なんとか別の方法はないものかと思案した。
天井では扇風機が音もなく回って風を送っている。
「ここはFANじゃないか。A/Cじゃない。」
「なぜA/Cじゃないといけない?」
「暑いから。」
「今夜は暑くない。」
確かに言われてみれば外から流れて来る風のおかげで暑くはない。
しかし暑いか暑くないかなんて個人差があるものじゃないか。
と思っても、車掌の余りにも堂々とした受答えにこちらの旗色が悪かった。
「それに、この列車には初めからA/C車は無いんだ。」
最初にそれを言ってくれよ。
私と車掌のやり取りを6人の男達はやはりニヤニヤと笑顔を浮かべながら観察している。
「じゃあもうあそこでいいです。」
と私が客室の外の折り畳み椅子を指すと、「No.」とハッキリ断られた。
「そこは私の椅子だ。」
成る程。
もはや私には車掌が指定した席に座るほか道は無く、渋々OKと言わざるを得なかった。
車掌はつい先刻まで私が座っていた簡素な椅子に腰を下ろし、私から追加料金を取ると赤字で切符に何かを書き込み、再び立ち上がって彼らをその席から追いやった。
彼らは意外にも素直に本来の席へと戻って行った。
私は向かい合う3人掛けの座席―――つまり6人分の座席を独占することとなった。
頭の後ろには壁に埋め込まれた形で2段目のベッドが収納されている。
さらにその上には収納されることのないベッドがあり、赤字で書かれた座席番号からそこが私のベッドということだった。
私はバックパックを一番上のベッドに乗せ、チェーンロックで柱に括り付けた。
時間はようやく9時を回る頃だった。
コルカタ・ハウラー駅への到着予定時間は翌11時45分。
あと14時間の深夜行。
外は何も見えず、車内から投下される灯りが大地を照らしている。
ただひたすら響くレールの繋ぎ目に車輪の落ちる音が、まるで永遠に続くように思えた。
June 13, 2012
A long day in Varanasi. 3
津波の如く押し寄せる時間に溺れそうな毎日を過ごす。
退くことを知らない大波は溢れ、必死に息を継ごうと足掻く日々。
社長子息の次男坊と言えば人も羨む放蕩息子の様に聞こえは良いが、
実情は、偉大な父親亡き後の不安と恐怖に怯える毎日を送っている。
遠くない未来に備えて武具を身に纏おうとも、敵はその暇さえ与えない。
せめて今は残すべき旅の空気をここに書き留め、旅に出られぬ将来の自身に備える。
一日の終わりに発つ枕元からの旅のために。
70リットルのバックパックを背負い早足でガンガー沿いを歩く。
遠回りになるが、迷路のように入り組んだ道で迷うよりずっとマシだ。
夕方も近いというのに日光は刺すように照り付け、汗が噴き出す。
荷物の重みで途中よろけて危うく川に落ちそうになりながら野菜市場に出た。
オートリクシャーを拾って駅へ急ごうと思ったのだが、普段は執拗に声を掛けて来るのに、必要な時に限って見当たらない。
足を畳んで地面に伏した野良牛の呑気なあくびに意味もなく腹が立つ。
木陰に集まった3台のサイクルリクシャーの漕手らは、仕事をサボって話に興じている。
そんなのどかな空の下を一人焦って時間に追われる自分自身に、如何にもニッポン人的であると嫌気が差す。
不意に「ジャパーニー」と声を掛けられ振り返った。
サイクルリクシャーの青年がサドルに腰掛け、器用に両足をハンドルの上に投げ出していた。
「ジャパーニー、何処まで行くんだ?」
「バラナシ駅。急いでるんだ。」
「ユーアーラッキー。オレはバラナシで一番速いリクシャーだ。」
エンジンで走るオートリクシャーに乗りたい所だったが、この頼もしい発言に、私はこの身を託したくなった。
韋駄天とはまさにこのこと、彼はひとたびペダルを漕ぎ出すと次々に他のリクシャーを追い抜かした。
振り向いて何か話しかけてくるものの、風でうまく聴き取れない。
恐らくスゲェだろとか言っているのに違いないと推測し、ホントだ、スゲェよ、ユーアーグレートなどと彼を褒め称えた。
前方の交差点が渋滞しているのを見ると彼はすかさず抜け道に入り、幾つか角を曲がると、先の交差点は既に遥か後方に見えた。
オートリクシャーが数台、渋滞に巻き込まれて苦戦しているのもお構いなしにこの青年は痛快に走る。
「Yeah, Ha!」
勢いに乗った彼は馬でも駆るかのような声を上げると、スピードを落さずコーナーを直角に曲がった。
その瞬間、私の乗る荷台の左側がふわりと浮き上がった。
時間が止まったかのように感じた、ほんの一瞬の出来事。
あわや転覆かというところで私は左脚に全体重を乗せて踏ん張った。
浮いた車輪は地面に叩き付けられ、再び地を蹴りながら回り始めた。
走りながら彼は振り向き、私と目を見合わせた。
互いの無事を確認し合うと可笑しさが込み上げ、風を切りながら二人で笑い合った。
バラナシ駅に着くと、古くこじんまりとした駅舎の階段を上り、木製の扉を開けた。
外国人専用のツアーデスク。
外国人旅行者は一般人と肩を並べて列を成すことなく、ここで悠々と鉄道予約が出来る。
木の床に木製の調度品、ソファーなど、インド全土に鉄道を敷設した英国統治時代を彷彿させる落ち付いた空気が室内に流れている。
ここまで来ればもう何の心配もない。
部屋には白いTシャツの背丈のひょろ長い欧米人が一人、鼻下に髭を蓄えた担当官と話していた。
その男が「Thanks.」と笑顔を交わしながら部屋を出ると、担当官は私を呼んだ。
「明後日のハウラー行きを予約しているんですが、今日の夜行に変更したいんです。」
と言って日本で予約していた切符を見せる。
彼はその切符を一通り見ると、尋ねた。
「なぜ?」
ここの国民は何故いちいち理由を必要とするのか、思わず感心してしまう。
日本人と違い、他人であっても無関心ではいられないのだろう。
時計は6時を回っているが何も問題はない。
私は落ち着いて事の顛末を説明した。
彼は言った。
「分かりました。ではこの切符は換金しますから、当日券売り場へ行って下さい。」
一瞬、彼の言った事が理解できなかった。
「…え、ここで切符は貰えないんですか?」
「ここは予約専用です。当日券はあちらへ行って戴かないといけません。」
そんな馬鹿なと半ば呆然としながら階段を下り、一旦駅舎を出てから当日券売り場へ向かった。
そこはイモ洗いでもするかのように男共が肌と肌を合わせながら密集し、前方の窓口に向かって隙間なく並ぶ地獄絵図だった。
気が遠くなる程の夥しい数の男共がワァワァと騒ぎながら押し合い圧し合いし、気を抜くと順番を抜かして横から入って来ようとする。
出来る限り隙を作らないために前の男の背中に胸を合わせ、それでも入って来ようとする輩には
「Keep your turn !」
順番を守れ!と気合いで威圧する。
前方に窓口が十はあるのだが、右の方は開いていない。
見ると右側の窓口の上には、[一等車の方はこちらに。] と書いてある。
数人の男がそこに並ぶと、時間も遅いからか我も我もと一等車専用窓口に並び出した。
「ここを開けろ。俺は一等車に乗るぞ。」
と声を上げる男がいたが、駅員は隣りの窓口から顔を出して言った。
「今日はその窓口は開けない。こっちに並べ。」
無慈悲な命令口調に場はさらに混乱した。
一等車窓口に並んでいた男たちが大声を上げながら横から列に入ろうと圧力を掛けて来るところを何とか阻止しながら、どうにか切符を買うことが出来た。
切符を渡されて間違っていないか見てみたが、座席も車輌番号も書かれていない。
後の男が「どけ!」と言っているのも聞かずに駅員に尋ねると、
「乗ってから車掌に相談してくれ。」
とのことだった。
午後6時35分。
汗臭い男共の群れから離れ、新鮮な空気を吸い込みながらプラットホームへと走る。
向かい側のホームに向かって陸橋を上る足取りは軽く、バックパックの重みも忘れかけていた。
May 08, 2012
A long day in Varanasi. 2
何の自慢にもならないが、私は忘れ物が多い。
物忘れも多い。
その上遅刻・寝坊も頻繁なものだから、社会人として生活している現況は何かの間違いとしか思えない。
このインド旅行で忘れたのは腕時計だった。
1ヶ所滞在のバカンスならむしろ不要な物だが、移動に次ぐ移動を要する旅に腕時計は欠かせない。
時間を確認する度にポケットから携帯電話を取り出すのは煩わしいものだ。
そこで、途中に寄ったタイのバンコクで腕時計を調達した。
コルカタ行きの飛行機に乗る前に朝市に寄り、路肩にテーブルを広げて腕時計や目覚し時計を並べた親父に、
「一番安い腕時計をくれ。」
と言って差し出されたのは、ドラえもんの腕時計だった。
時計の文字盤一面に大きくドラえもんの顔が描かれ、赤い鼻を中心に3本の針が動いている。
100バーツ(約250円)と安く買えたものの、大人の腕に嵌めるには流石に恥ずかしく、結局カバンのポケットに入れて携帯することになったのだった。
とは言え、そうも言っていられない。
次の電話まで3時間という短時間のうちに出来る限りバラナシを堪能したい。
オートリクシャーで少し離れた所にも行ってみたく、時間を逐一確認するためにも恥を忍んで腕時計を嵌めることにした。
電話屋を出た私は一度クミコハウスに戻り、買ったばかりの服に着替えてスカーフも首に巻き、フィルムを5本バックパックから取り出して鞄に入れた。
川の中へと階段の続くガート沿いをパシャリ、パシャリと写真を撮りながら歩き、ゴードリヤ交差点でオートリクシャーを拾ってバラナシ・カントへ行ってみると取り立てて見るものもない閑静な住宅街を延々と歩く羽目になり、漸く旧市街へと向かうオートリクシャーを捕まえた時には既に3時間が過ぎていた。
歩き疲れて喉が乾いていた。
駅前の適当なカフェで降ろしてもらい、コーラを片手に店内の電話をかけた。
「ハロー?パスポートを失くした者です。日本人スタッフは帰って来ましたか?」
「マダデス。1時間後ニモウ一度カケテ下サイ。」
相変わらず問題は解決しない。
とりあえず空いている席に座って左腕を上げて腕時計を見た―――3時30分。
今日はもう諦めて明日コルカタに帰るとするか…と考えていると、一人の男が背後から首を伸ばしてきた。
「おい、これは何だ?」
男はすっ頓狂な声を出して腕時計を指している。
「ドラえもんだよ。知らない?」
私の質問には応えず男は友人を呼び、何事かと興味を持った他の客まで私の周囲に集まり出した。
大の男共がドラえもんの腕時計に興味津々となって互いに話し合っている。
「それ、メイド・イン・ジャパンか?」
一人の男が尋ねた。
「そうだ。…いや、バンコクで買ったからメイド・イン・タイランドかも知れない。」
「幾らで買った?」
「100バーツ。でも売らないよ?まだまだ必要なんだ。」
また男達が話し出す。
「バーツって何ルピーだ?」
「バーツもルピーもレートは同じだ。100ルピーだ。」
そんな声が聞こえて来る。
「ちょっと待って。売らないよ?まだまだ必要なんだ。」
「50ルピーでどうだ?」
「おれは60ルピー出すぞ!」
「聞いてないのか?悪いけどまだまだ使うから売ることは出来ないんだ。」
「幾らならいいんだ!?」
「だから売る訳にいかないんだ。」
そこまで言って漸く諦めて、男らは解散した。
店を出てまた最初の電話屋に戻った。
まだ少年が一人で店番をしている。
「4時半になったら電話を使うから、ここで待っててもいいか?」
と腕時計を見せて話すと、少年は突然外に出て大人の男を呼んだ。
父親だろうか、痩身の背の高い男がやって来て私の手首を取って腕時計を見始めると、またもや何事かと近所の男共に私は取り囲まれ、同じ押し問答を繰り広げることになった。
インド人はドラえもんを知らないのか?
あるいはドラえもんの腕時計を見たことがないのか?
それとも文字盤いっぱいにドラえもんの顔を描いたデザインが珍しいのか?
結局その疑問は解決されることはなかった。
時間が来て、電話をかけた。
「ハロー?パスポートを失った者です。」
「担当官ニ替ワリマス。」
終業前の5時前になって、ついに担当官が出た。
彼は言った。
「アサオケンジさんですね?先程あなたの泊まったホテルからパスポートを届けてくれましたよ。」
さすが一泊1,000ルピーも取るホテルだけある。
下手な安宿ならそのまま売られていても不思議ではない。
クミコハウスに戻ってパスポートが見付かった旨を久美子さんに話した。
「今なら6時45分の急行に間に合うかもしれないよ。今すぐ行きな。」
彼女はインドにあって日本の母ちゃんに違いない。
私は再びバックパックを担いで、日の傾き始めたガートを急ぎ足で歩き出した。
(つづく)
March 28, 2012
A long day in Varanasi. 1
翌朝、居間を横切る足音で目が覚めた。
窓から外を見ると、まだ青白い空の下で赤と水色に塗られた小舟が一艘ガンガーを泳いでいる。
旅行前にはここで沐浴することを夢見ていたものの、自分の出自がメコンに違いないと悟った今、もうその熱は冷め切っていた。
外に出て川岸まで下りてみると、写真やテレビで観た沐浴の風景が広がる。
パンツ一枚で肩まで川に浸かる男たちやサリーを纏ったまま腰まで浸かる女性らに交じって、歯を磨く者や身体を洗う者、衣服の洗濯に精を出す者までおり、写真集で観たような厳粛な雰囲気はあまり感じられない。
意外とあっさりしているもので、満面の笑みを浮かべて写真を撮ってくれと頼まれる始末。
椎名誠はその著『活字のサーカス』でバラナシを訪れたことについて、意外にあっけらかんとした雰囲気だったと書いた。
「死を想う街」と呼ばれるバラナシだが、死を忌み嫌い敬遠する日本文化においてはよほど哲学的に思え、写真家も「如何にも」といった売り物として価値の出る写真を撮っているだけに過ぎないのだ。
そのエッセイ集を読んだのは高校1年生の時だったが、28歳にしてその光景を目の当たりにし、ようやく納得することが出来た。
ここに住む人々にとっては単なる日常でしかないのだ。
領事館が開庁する9時を待ち、電話屋へ行った。
昨夜歩いた迷路のような細道の角を幾つか折れた所に、電話の看板を掲げた店があった。
極めて簡素なコンクリート造りの小部屋を覗くと、中には机が1台と椅子が1脚、その机の上に電話機が1台だけ置かれ、椅子には小学生と思しき少年が漫画本を読んで座っている。
店の番を頼まれているのか、大人の姿は見当たらない。
「ナマスカール。長距離電話できる?」
「何処へ?」
「コルカタ。」
少年は何も言わずに立ち上がって椅子を勧めてくれた。
ガイドブックの巻末辺りに載っている緊急連絡先の頁を見ながらプッシュボタンを押して行く。
その間、少年は私の真横で頭が擦れ合うぐらいに接近して立っている。
何だろうか?
ジャパーニーの話すことにそんなに興味があるのだろうか?
5〜6回程コール音が鳴って、相手が出た。
「Hello?」
その途端、少年は手に持っていたデジタル式のタイマーを押し、私に見えるように机の上に置いた。
なるほど、その為に耳を傍立てていたのか、と納得する。
「Hello. Is that consulate of Japan?」
「Yes.」
「I lost my passport, maybe in Kolkata.」
「…アノ、日本ノ方デスヨネ?日本語デオ願イシマス。」
なるほど、私はよほど発音が悪いらしい。
インド訛りの英語も相当聴き取り辛いじゃないかと悔しく思ったが、よく考えれば日本領事館に勤めているのだから日本語が話せて当たり前なのだった。
「担当官ハ席ヲ外シテイマス。15分後ニモウ一度カケテ下サイ。」
机の上のタイマーは2分40秒。
「15分後にまたかけるから、ここで待たせてもらえないか?」
と聞くと、少年はまったく表情を変えずに
「Sure.」
とだけ短く答え、入口の縁に腰かけてまた漫画本を読み始めた。
私はこの部屋から道行く人をカメラに収めたりして時間を潰し、あっという間に15分が過ぎた。
もう一度領事館にかけてみる。
「ハロー?」
さっきの男だった。
「先ほど電話した者です。パスポートを失くした。」
「担当官ハタダイマ接客中デス。1時間後ニカケテ下サイ。」
なんといい加減な対応だろうか。
とは言え、そもそもパスポートを紛失する方が悪いのだ。
仕方なく街をぶらつくことにした。
ゴードリヤ交差点近くのマーケットへ行ってみた。
野菜や果物や服屋が道の真ん中で露店を繰り広げている。
5月のバラナシは暑い。
日差しも強く、乾燥した風が排気ガスと牛糞の匂いを運んでくる。
インドの男性はスカーフを首に巻いたり頭に巻いたりして日光を避けている。
私も1枚買ってみた。
アルカイダの一員が巻いていそうな白と紫の格子柄のスカーフ。
さらに何かの舞台衣装にでも使えそうな砂漠の旅人を彷彿させる服も買ってみた。
こうなったら1日だけでも思う存分バラナシを楽しまなければ損だ。
野菜売りに「ヘイ、ジャパーニー!」と声をかけられ、スイカを勧められた。
丸々1個勧められても食べられる筈がなく、4分の1にしてくれと言うと、値段も4分の1に負けてくれた。
当然と言えば当然だが、残りの4分の3を誰か買ってくれるのだろうかと申し訳なく思いながら、その場で平らげた。
そうこうしている内に1時間が過ぎ、電話屋に戻って電話をかけた。
また同じ男が出て、言った。
「担当官ハ外出中デス。3時間後ニモウ一度カケテ下サイ。」
(つづく)
March 04, 2012
Kumiko House.
けたたましいエンジン音を響かせながらオートリクシャーはガンガーに架かる橋を渡った。
左曲がりにカーブした所でバラナシ市街へと続く道と交差する。
その信号で停まるや否や、運転手は後ろに振り向いた。
「宿は決まっているのか?」
「あぁ。」
「何処だ?」
「クミコハウス。知ってるか?」
運転手は少し考え、頭を横に振った。
著名な日本人アーティストが多く泊まったと聞く「久美子ハウス」。
日本人旅行者が多数泊まっているであろうことに抵抗があったが、逆にそこまで有名なら敢えて行ってみたい気もした。
バラナシで3泊する予定だから、嫌になったら他に移ればいいのだ。
午後10時、バラナシ観光の起点とも言えるゴードリヤ交差点に着いた。
夜も更けた真っ暗な時間にも拘わらず、ナトリウムランプの黄色い照明で道は煌々と照らされていた。
水道管でも破裂したのか、工事中のフェンスで囲われた周囲は水で溢れぬかるみ、そこに異常な程人が集まっていた。
インド人もいれば外国人も多く、どうやら何事かが起こったのであろうことが容易に想像できた。
「ここから先には行けない。誰かに案内してもらってくれ。」
オートリクシャーの運転手はそう言って私を降ろした。
誰かにと言われても誰に頼めばいいのかと困ったが、そんな心配は杞憂に終わった。
バックパックを担いで車を降りた途端、すぐに別の運転手が声をかけて来た。
「ハローミスター。リクシャー?」
どう見てもまだ小学生という少年だった。
彼は小柄ながらも大人と同じ人力車を引っ張っていた。
「クミコハウス、知ってるかい?」
と話しながらガイドブックを見せてみると、彼は小さな地図に食い込むように目を近付けて暫く見詰め、リクシャーの持ち手を地面に置いた。
「カモン。」
彼は私をこまねいて歩き始め、暗い細道へと案内した。
道は細く曲がりくねり、三叉路に突き当たる度に彼は人に尋ねた。
道の両脇の建物は高く、雑然と様々な物が其処此処に置かれ、時に行き止まり、時に牛が寝そべり、幾つかの角を折れた時点で私は既に方向を失った。
それでもなお道は続き、もはやこの若い運転手にこの身を預ける他なかった。
この案内人がいなければ、私は朝までこの暗い細道で出るに出られず途方に暮れていたに違いない。
クミコハウスは川へと降りる階段のすぐ手前にあった。
開け放たれた扉から光が洩れ、その中で人影が動いている様子が窺える。
少年にチップを弾んで金を払い、私はその建物へと歩み寄った。
建物の入口は台所だった。
そこに体格の良い婦人と、さらに体格が良く灰色の髭をふんだんに蓄えた老人が座っていた。
女性は編み物でもしているのか、何やら手を細かく動かしている。
「Excuse me. Can I stay here tonight ?」
と英語で話しかけると、婦人は手を止めて顔を上げ、私を見た。
「こんな時間にかい?」
すぐに私を日本人と見た彼女は日本語で答えた。
なるほど、この女性こそ日本からインド人に嫁いだ「久美子さん」なのに違いない。
やや迷惑そうに話す彼女の言葉に、私は「すみません」と謝るほかなかった。
「それじゃここで靴脱いで、パスポート見せて。」
上の階へと続く階段の下の下駄箱に靴を置き、たすきに掛けていた鞄からパスポートを出そうとした。
…が、無い。
バックパックを降ろしてパスポートを探した。
…が、やはり無い。
「あ、あれ?確かに入れていた筈なんですけど・・・」
と慌ててバックパックの底の方まで探りながら、今朝の出来事に思いを馳せた。
昨日コルカタのホテルでパスポートを預け、返してもらう前にサダルストリートを探しに外へ飛び出した。
今日は早朝に急いでチェックアウトし、半ば寝呆けたフロントスタッフに金を払って、
Thank you, bye.と送り出された。
そのまま私は急ぎ足でフリースクールストリートを抜け出した。
つまりパスポートは返して貰えていない。
旅慣れていたつもりが、とんだ初歩的なミスを犯してしまったことに漸く気が付いた。
その経緯を久美子さんに話すと、彼女は呆れたように溜め息をついた。
「じゃあ今日は泊まって、明日コルカタの領事館に電話しな。」
とりあえず1泊分の20ルピーを支払って、上の階へと案内してもらった。
2階はシングルルーム、3階は雑魚寝のドミトリーだった。
階段のすぐ手前にベッドが幾つか並び、数人が眠りに就いている。
その奥に卓袱台や本棚のある居間、さらにその奥もベッドの並ぶ寝室となっている。
後で説明を受けたところ、階段に近い寝室は病人用とのことだった。
「どうもこんにちは。」
インドまで来て日本人旅行者の集まりに異様な社会感を覚えながら、新参者として取り敢えず丁重に挨拶をしてみた。
彼らは意外にもフレンドリーに近寄ってくれた。
「パスポート失くしちゃったんですか!」
一通りの自己紹介などを終え、念の為に私はバックパックの中身を全部出してみたが、やはり見付かる筈がなかった。
「何処で?」
「コルカタ。」
「あちゃー、コルカタ。それはもう出て来ないかもですね。」
他の旅行者もその言葉に同調する。
ここに集まる旅行者は皆若く、学生であったりフリーターであったり、もう何ヶ月も旅をしている者もいれば、私と同じく連休の間だけの者もいた。
パスポート探しを諦め、トイレに入った。
日本人経営の宿の割に「手で拭く」式のトイレであることに少々驚いたが、つまりここに集まる旅行者は皆若くして旅慣れた猛者なのだと得心した。
水量の頼りない粗末なシャワーを浴びて寝室を覗いてみると、皆思い思いに読書に耽ったり絵を描いたりしていた。
恐らく私はこの中で最年長だったに違いない。
なんとなく仲間に入り辛く、私は居間で寝ることにした。
板の間で背が少々痛んだが、窓から入る風と目に映るガンガーの景色が心地良かった。
音も無く流れる漆黒の川を見つめる。
何も見えないけれども、そこに川が流れているというだけで落ち着ける。
明日すべきことを考えながら、眠りに就いた。
February 01, 2012
Soul River.
鮭は如何にして帰るべき母川を記憶しているのだろうか。
日本で産まれた鮭は、生後わずか4年間という一生の殆どをベーリング海やアラスカ海など遥か離れた外洋で過ごし、産卵と死の為に日本の母川に回帰する。
それが鮭を鮭たらしめる本能ゆえと言うならば、我々人類も持ち合わせていた筈の本能は何処に消えたのであろうか。
我々は何処から来て何処へ行くのか、何人たりとも知り得ない。
何処で道を誤ったのか帰るべき母川を見失った我々の魂は、為す術もなく彷徨い続ける。
我々は知らず帰るべき川を求める求道者なのだ。
コルカタ・ハウラー駅を出発して約11時間後、列車はムガル・サライ駅に到着した。
バラナシまであと一駅。
しかし列車は動き出す気配をまるで見せず、乗客たちはホームに降りて身体を伸ばしたり顔を洗ったりし始めた。
まぁいつものことかとのんびり構えていたが、どうにも構内のアナウンスが騒がしい。
窓から身を乗り出して駅員らしい男に尋ねてみた。
「いつ出発するんだ?」
「さぁな。バラナシとここの間で事故だ。」
あと一駅まで来てこれか、相変わらずツイてない。
バックパックを担いで列車を降り、線路を跨いで出口へ向かう陸橋の上で、男がニヤつきながら寄って来た。
「ジャパーニー、バラナシへ行くのかい?」
草履に短パン、浅黒い胸を肌けさせながら水色のYシャツを羽織った男だった。
「そうだ。」
「500ルピーでどうだい?」
タクシーかオートリクシャーの運転手らしい。
「高ぇよ。200だ。」
「おいおい、馬鹿言っちゃいけねぇ。せめて400だ。」
「250。」
などと交渉し、300ルピーで手打ちとなった。
駅前のナイトバザールで賑わう道をオートリクシャーで軽快に走る。
色鮮やかなサリーやパンジャビドレス、道端に座り込む牛、真面目な面持ちで店番をする子供らの姿が目に飛び込んで来ては後方へと過ぎ去っていく。
バザールを抜けて暗くなった所で突然リクシャーは停まった。
なんだか男に金を渡している。
「さっきのは何だ?」
「ヤクザさ。」
時々ここで通行料を取っていると言う。
素直に払えば何も問題は起こらない。
暫く走ってまた停まった。
「ちょっとここで待っててくれ。」
道路脇の街路樹の下に停めると、運転手は車を放っぽらかして駆けて行った。
小用か?と思って見ていると、暗闇の中にぽつんと浮かぶ小さな店を数人の男たちが囲んでいる中に入った。
私も車を降りて近寄って見てみると、何やらタバコのようなものを買って吸っている。
「お前もヤるか?」
マリファナか何かだろうか。
どちらにしても煙草の吸えない私には関係がない。
エネルギーを充填した運転手は、車に戻って来ると再びアクセルをかけた。
暗い道を行く。
なんだか懐かしい匂いが漂って来る。
子供の頃、石油ストーブの天板にいたずらに爪や髪を乗せた時の匂い。
橋の下を暗い川が流れている。
向こう側の川面に黄色い燈火が幾つも並んで揺らめきながら映っている。
運転手がエンジン音に負けじと大声で私に向かって怒鳴った。
「これがガンガーだ!」
これが旅の目的地、ガンガーか。
水面を凝視し、その神々しさに感動してみた。
拳を握り、「I got it !」と叫んでみた。
しかしどれも白々しかった。
こんな所まで来ておきながら、ラオスで出会ったメコンほどの衝撃は私には感じられなかった。
メコンほどのインスピレーションは呼び起こされない。
長く憧れていたガンガーを目の当たりにして、私はようやく悟った。
恐らくメコンは、私にとって本能が呼び覚ます魂の母川なのに違いない。
即ち、私の旅はメコンで既に終わっていたのだ、と。
そんなことを考えているとは露知らず、運転手は上機嫌に人で賑わうゴードリヤ交差点へとリクシャーを転がした。